久しぶりに読み返していて、「はっ」となったので記録しておこうと思います
もし、身近な子どもに当てはまることがあったら、この視点で見てあげると合点がいくかもしれません

糸山先生はDONGLISH2020の講義の中でもおっしゃいました
「理由がわからないから覚えられないのだ」と
なぜ “Good morning.” =「お早うございます。」なのか?
どこに日本語の「お早い」の意味が含まれているのか?
英語のmorningが意味する「朝」は訳さないのか?
その理由は、そもそもGood morning. は I wish you a good morning.の略式な言い方だからで、
それを、日本の“朝の挨拶”である「お早うございます。」にあてはめただけだからで…
そのように、DONGLISHでは、日本語と英語の「つじつま」を合わせていく、貴重な講義がなされています
理由を知らなくても躓かない子もいます
でも、躓く子には躓くだけの理由があるはずなのです

そこで、この名著!1975年 銀林浩著 『子どもはどこでつまずくか』

今日は、「十一を101と書いてしまう子が多い件」についての章の一部をご紹介します

 先生方は一つ不思議に思うかもしれません。11は「じゅういち」と読めるのに、「じゅういち」を書かせると「101」と書く。これは子どもの方がおかしいじゃないか、と。確かに現実をみてみると、読む方はできるのに書く方で間違えるという子が多いのです。
 これはなぜなのでしょうか?それを考えるために、大脳生理学に関するほんの初歩的な事実を思い起こしてみましょう。
 人間は、外界の刺激を感覚器を通じて受けとり、感覚神経に運び込む。一方、運動は運動神経によって起こされる。聞く・読むということが主として感覚神経に関係し、書くということが運動神経に依存していることは明らかです。もちろん、この両神経の間には密接な関係があるし、人間が統一体をなしているのはそれらが一体として作動しているからにほかなりません。
 しかし、さまざまな精神疾患の現象から、この両神経がかなり独立的に働くことも知られています。たとえば、失認症という病気は、字を見ても読めない、書くことはできても読めないという疾患なのです。一方失書症という病気は、読めるのに、書く段になるとさっぱり書けない。前者は感覚神経に欠陥があるのだし、後者は感覚神経は大丈夫なのに、運動神経がやられているわけです。
 さて、読めるのになぜ書けないかという疑問は、まずこのような生理的構造に対する無知を表しています。しかし、これは読むことと書くことについて一般的に言えることで、目下の場合にはさらに次のような事情が加わります。
 それは命数法と記数法の分裂ということです。先ほどの「101」と書いた子どもは、読むとおり書いて×を貰ったのでした。つまり、ここでは読んだとおり書いてはならないのです。「11」と書くのは記数法で、それを「じゅういち」と読むのは数の名前だから命数法といわれています。この両者が一致していれば、これほど幸いなことはありませんが、今日われわれが使っているインド・アラビア記数法では、これが分離してしまっているのです。
 しかし、このような事態が子どもにとって生まれて初めてのものであることは明らかです。普通は、いわれたとおり書いて○なのに、ここだけが×になる。いやそればかりじゃない国語の分野では言われた通り書くことを強制されているのに、この数の記数法だけがその反対であるわけで、子どもに与える混乱はいっそう大きいのです。
 では、なぜ命数法と記数法は異なっているのでしょうか?中国のように、古くから独自の文化を発展させ、言葉も文字も自前で調達した社会では、インド・アラビア数字を使うまでは、この幸運な一致が見られます。すなわち、漢数字においては、命数法と記数法の分裂がなかったのです。「三びゃく六じゅう五」は、その通り、「三百六十五」と書いて済んだわけです。
 しかし、ギリシャ・ローマやアラビアからさまざまな文化を借用したヨーロッパはそうはいきませんでした。命数法と記数法とはまったく何の関係もなくなってしまっています。11はelevenと読むのに、ローマ数字では「Ⅺ」と書かなければならないといった具合です。そこにおいては、われわれ日本人以上の断絶に堪えなければならないわけです。日本人は、中国文化のおかげでそれほどのギャップは経験しなくてよかったともいえますが、一方、日本人のおとなは、うっかりこの違いを忘れてしまうのかもしれません。
 どこの国の命数法においても、位取りの原理は使われておりません。11を「いちいち」と読む棒読み式の言い方はどこにもないのです。電話番号やナンバープレートは棒読みにしますが、それは大きさを表さない純粋の順序数だからまだ許されることなのです。大きさを表現する集合数を呼ぶ際には、その大きさが音だけで明瞭に表現されなくてはならないから、位を表す「十、百、千、万…」などの言葉を省くわけにはいきません。これは、中国語でもヨーロッパの諸言語でも同様です。
 わずかに、小数点以下の数字を読む際に棒読みにしますが、これはヨーロッパが16世紀に位取りの原理を意識しつつ苦心して十進小数を割り出してからのことにすぎません。日本では、小数も位を表す言葉を使って、「6分5厘=0.065」などといっていたのでした。
 ところが、記数法の方は位取りの原理が導入できます。この場合には、数字は平面上に配置されているわけですから、位を表す文字がなくても、数字が置かれる位置だけで表現ができるからです。位取りの原理とはすぐれて空間的原理ですから、時間的現象である命数法とは調和せず、もっぱら空間的配置だけで表現される記数法に属することは当然でしょう。
引用終わり

この本の、ほんの冒頭部分です
この先、より深く、「子どもが躓く原因」についての考え方が色々と出てきます
大切なのは、大人が忘れてしまっている、大人も素通りしてきてしまった、躓きポイントで、実際に子どもが躓いたとき、大人がどう捉えてあげられるか、ということだと思うのです

どんぐり問題にも、位取りの問題が何問か用意されています
知らずに通り過ぎて、当たり前のように記数法と命数法を区別している子が多い中、時々、ひっかかっている子はいます
特に、かけ算のひっさんのくりあがりなどで、
かけた数を書きながら足していくとき、すべての数を羅列してしまう子はいます

ちょっとした説明で、あっというまにその勘違いをクリアにできる子もいますが、
どうしても理解できない子も中にはいるのです

私は昔から、そういう子に出会うと、「今、それを持っていないんだからしょうがないか」と思うのですが、親御さんの多くは、その子が持っていないのにも関わらず、「使いなさい!使いなさい!」とせき立てているように見えることがあります

私に言わせれば、持たせなかったのはこれまでの子どものささやかな人生経験によるものなのに、随分と他人事のように責任を子どもに押しつけるものだなあ、というくらいのもので、やはり子ども自身には責任はありません

生活の中に、数感覚があるかどうか、その部分を、ただただ、好奇心のままどれだけ膨らませてあげられたか、まだ幼いお子さんと暮らしているご家庭では、意識されるといいと思います
決して数字を教えないこと、決して計算をさせないこと、読み違っていても正さないこと

たとえば子どもは、自分の誕生日の数字が大好きですよね
25日生まれの子は、自分の誕生日の数字をどこかに見つけては、喜んで読んだり指さしたりするでしょう
その「25」が、「二十五」で、記数法で表された数だなんて、知るよしもなく、また、「にご」と読むこともありません
それは、私たちがそう読まないからです
でも、おばあちゃんちの電話番号は「352…」(さんごぉにぃ…)と唱えます
さんびゃくごじゅうに、なんて言いません
それは、私たちがそう読まないからです

やっぱり子どもは私たちの声を聞いています
私たちのひとりごとや、用事をしているときの声、誰かと話している声を聞いて、日本語も覚えるし、数字の読み方も知っていきます

そういうたっぷりの数体験を重ねたあとで、学校の算数に入ります

「25」は「にじゅうご」と読むことは、誕生日で知っているし、耳で聞いても「にじゅうご」は「25」と書くことがわかっているので、「205」と書いてしまうこともないでしょう
なんなら私には『101ぴきわんちゃん』の絵本で「へえ、ひゃくいち、ってこう書くのか~真ん中に穴があいていて、ドーナッツみたい」と思った記憶が残っています
すべてのことが勉強である必要はないんです
むしろ、子どもらしい、自然な体験でいいんです
大人が注意すべきは、「早く教えないこと」です
記数法と命数法を区別する練習なんかもってのほかで、ありとあらゆる数字の表現方法を雑多に知ればいいんです
言語において日本語の複雑さは有名ですが、実は数字の表し方、算数の考え方も、世界に誇るほど複雑で難解、でも、あっさりとやってのけているのです、わたしたち
いっぽん、にほん、さんぼん…なんていい例ですね

ある国語の教材で、電車の中での家族の会話を外国の方が聞いていて、大変興味深い、という気持ちで書いた文章がありました
小さな兄弟を真ん中にして、初老の夫婦と、若い夫婦がいます
若い女性は初老の女性を「お母さん」と呼びますが初老の女性も若い女性を「お母さん」と呼び、子どもたちも若い女性を「お母さん」と呼び、初老の女性のことは「おばあちゃん」と言います
兄弟のうちの小さい方は大きい方を「お兄ちゃん」と呼び、
若い男性も兄弟の大きい方を「お兄ちゃん」と呼びます
兄弟の大きい方は自分のことも「お兄ちゃん」と言います

お兄ちゃん、とは自分より年上の男性への呼称ではないか、と著者は書きつつも、その家族が、最も小さい子どもを中心に呼称を選んでいることに気づきます

こんなややこしい状態でも、小さな子どもが「えっ!?お母さんって、本当はどっち?」「えっ!?お父さんにとっても僕の兄ちゃんが兄ちゃんなのか?」なんて迷っているはずはありません

子どもはいつのまにか、こんな複雑なことまで理解しているんです
イメージとして、ふわふわと、かたまっていない、形も、厚さもまだまだ決まっていない大きな大きなスポンジのようなものをこしらえている感じです
それが正しいのか、将来役に立つのか、順序立てるべきなのか、なんて考える必要はありません
たっぷりと、一緒にそのふわふわの上で過ごすイメージです
できるだけ厚く、できるだけ大きく、ふわふわで、広々としたスポンジのようなものの上で

それが、準備学習です
その上に、学校での整理学習が入ってくるのが理想的です
準備学習のないまま、整理学習をするのは、スポンジもないのに水をかけるようなものです
スポンジが厚くて、大きければ、水をどんどん吸い込むことができます

子どもたちは整理学習をしながら、スポンジを自分で整えていくのです
堅くしっかりとした棚に仕上げていく子もいれば、バラエティに富んだ広場を作り上げる子もいるでしょう
土台が広くて、伸びやかであればあるほど、それぞれが自由な世界に活用することができます

「今、それを持っていないんだからしょうがないか」と私は思うと同時に、その子のスポンジの広さと厚さを想像します
スポンジが薄くて小さいのに水をいくら注いでも、どんどんこぼれていくのです
でも、その子はそのスポンジで生きていく
生きていけるんです
でも、スポンジを広げる時に一緒に過ごしたはずの親(または準ずる存在)に「なんでそんなスポンジなの!!」って指摘されたら、それはまた、理不尽な指摘だと誰にでもわかりますよね

子どもを責めず、親としてできることを考えてみてください
どの子も、必ず伸びます
伸び方を、他の子と比べるようなことをしなければ、その子がぐんぐん伸びていることに気づきますが、自分の子より「伸びている」と見える子と比べている以上、その事に気づかないのです

まだ小さいお子さんと暮らしている方は、スポンジ巨大化を意識して(それが一番らく!)
思考の臨界期を過ぎて、スポンジの大きさが固定されてるお子さんと暮らしている方は、
もう、そりゃあもう、そこから先、その子が人生を楽しむために全力で応援しましょう

子どもはどこでつまずくか 引用1回目でした