最近、
立て続けに、「公式通り解いたけど、答えが合わない」という質問が中学生から来たので、それなら、どうしてそこまでそう解いたのか、話してみて、と言うと、「公式に当てはめただけで、意味がわかりません」と言うのです
10年ほど前、「大手塾の夏期講習会に行ってみたい!」と塾生が言うので、「はいはい、どうぞ行っといで」と言ったら本当に参加してきて、「すごく説明がわかりやすいんです!」と嬉しそうに報告してきました
私のところは夏期講習をしませんし、講習会や夏合宿を何のためにするのか、元進学塾社員としてよく知っているので、別に悔しくもさみしくもないのですが、明らかに、「やばい、例のあれを植え付けられてきた…」とその後の生徒を見て実感するのです
「たとえばこの問題なんですけど…」
その生徒は意気揚々と他塾の夏期講習のテキストを私に見せながら言いました
「これ、30秒で解けるんですよ!」
そう言って、本当に30秒くらいで解いてみせてくれました
「へえ、すご技を教わってきたのねえ」
「そうなんです!そういうの、いっぱい教えてくれるんですよ!」
しちめんどくさい、考えさせる授業しかしない私に当てつけるように、解法を教えてくれる、しかも、最短距離のやつを、って嬉しそうに報告してきたので笑いそうになりました
そこで、
意地悪するつもりはなかったのですが、せっかく覚えてきたのなら、と、入試問題集をパラパラと探って、数年前に入試に出題されたその問題と数値とポイントが少し違うだけの問題を見せました
「それならこれも30秒だね」
「もちろんです!!」
…結果、もちろん、その生徒は解けませんでした
30秒どころか、3分かかってもとけず、30分ねばる集中力は元々ない子だったので、諦めてしまいました
私から見ると、ほとんど同じ考え方で解き進めていくと簡単に解ける問題でしたが、その子にしてみると、30秒で解ける例のテクニックの、どこにどの数値を当てはめたらよいのか、まるで、同じ絵を、逆さまにして見せたら「違う絵だ!?」と認識してしまうような、そんな感覚に陥っているような顔をしていました
昔通った自動車教習所でも、似たようなことがありました
すごく優しくて、親切な教官が大人気で、私もその方によく同乗してもらい、車の運転を教えていただきました
教習所の中のコースの、「車庫入れ」や「クランク」「縦列駐車」などを教えてくれる時、その先生は言うのです
「この車窓のこのラインと、あの何本目の柱が重なったところでハンドルを切ってね」
言われた通りにすると、きれいに収まるのでした
それで、結構早めに試験を突破するというわけです
それは、きっと、教習所内の試験など突破したとしても、実際の車庫や状況はそれぞれに幅も違うのだから、そのときはそのときで覚え直せばいい、という意味だったのでしょうけれど、何も考えずそのラインが重なったらハンドルを切る、という運転方法の応用のきかなさは、初心者の私にもわかるものでした
(あとであちこちの友人達に聞いたら全国の教習所で似たような教え方をしていることを知りました)
前述した生徒が、植え付けられた、「例のあれ」
それは、
インスタントな問題の解き方で、できるだけ簡単に、できるだけ頭を使わず、できるだけ短時間にできる、っていうものなんですが、何も、それが、すべてよくない、と言っているわけではなく、そういう手法を、教えて大丈夫なタイプと、教えても使いこなせないタイプ、そして、切り株の根っこで兎が転げるのを一生待ってしまうタイプといるんだけどなあ、といつも思うわけなんです
同じようにインスタント解法を教えたとしても、自分が納得するまで使わず、納得するまで質問したり、納得するまで練習を重ねたりする子もいれば、この生徒のように、類題が集められ、インスタントな練習を続けている時間だけは解けたものの、一度そこを離れて、ちょっと違った視点で問題を出されると、もう、同じ問題だという認識さえできない子もいるのです
30年近く小中学生の勉強を見てきて、生徒を通じて見てきた学校の先生達の教え方でさえも、インスタント解法に近づいてきています
近づいてきているというよりも、むしろ、真面目に学校のカリキュラムにのっかり、真面目に宿題をこなし、真面目に単元テストのための勉強をし、点数をとって、なんの疑いもなく進んできた子が、「公式を使っても解けません」と言い、公式の意味を聞いても「わかりません」と言うのです
学校の先生や、カリキュラムだけが悪いのではなく、家庭からの要望も、少しずつ、おかしな方向へ進んできてしまったのだと思います
何度も書きますが、「わかる」ことより「できる」ことを優先している親が多く、学校で教わる前にできるようにしておこう、なんなら、保育園や幼稚園でみんなでする前に練習させておこう、みたいな、勘違いした「親の出番」が横行しているせいもあるのではないでしょうか
だから、小学校入学前の親御さんたちからの相談内容に多いのは「小学校に上がる前に何をしておけばよいでしょうか」高学年になると「授業でも始まったし中学でも苦手にならないように、英語は早めにやっておいた方がよいでしょうか」というものですし、また、あまりにも「先取り」している子が多いために、学校の先生も「あとで塾で教わっておいて」「チャレンジタッチで実験動画を見ておいて」なんて、耳を疑うようなことを平気で言うようになってきています
その悪循環といいましょうか、持ちつ持たれつの危うい状態が、子どもたちをさらなる混乱に陥れています
子どもたちは失敗したり、恥をかいたりして初めて、強くなれるのです
それに、「わかる」けれども「できる」に至らない期間を楽しんでこそ、探究心は育まれるのです
それなのに、「できる」を最優先した結果、「わかる」過程などどうでもいい、とでもいうように、子どもがゆっくり考え、じっくり考え、自由に考える機会を奪い、「そんなことはいいからとにかく覚えなさい」と言ってしまう大人がいるという、悲劇
しかもそういう大人が、学校にも、家の中にも、いるかもしれない、現実
親は追い詰めているつもりがなくても、小学校の課題提出を評価されて喜んだり、テストの点数を褒めたりすることで、子どもは勝手に「できることが重要なのだ」と暗示をかけられていきます
ここでいつも、少し立ち止まってほしいのは、少なくとも私たちの子ども時代とでさえも、比較してはいけないのです
子どもが、自由に活躍できる時間と場所がもう少し多かった時代、宿題をやっても、テストがどうでも、あまり関係ない時代がありました
もっと遡れば、宿題なんかなかったし、それどころか、帰宅したら家の仕事をするのが子どもにとっても日課だったのです
今の子どもたちは、園児時代も含め、いつも「できる」ことを評価され、学校に入ればもっとで
それなのに、さらに子どもたちの優劣を目立たせ、個々のペースを許さない習い事などにどんどん入れ、もう、評価されるのが当たり前だと思って育っています
だから、意味がわからなくても公式を使います
「できる」が優先ですから
でも、ここ数年、高校受験生の中で飛躍する子、中学校で確実に学び取る力をつけている子は、いくら私が珍しくインスタント解法を教えたとしても、「なんで?」「どうしてこうなるの?」と聞いてくる子です
聞いてきておいて、「待って!自分で考えたいです!!」と時間をほしがる子です
質問された時、私が自分で問題を解いたノートを見せることが多いのですが、大量に解いているので、私なりに省略したり、解き方を工夫したりしている部分に気づいては、「ここはどうやったの?」「なんでここからこうなるの?」とよく気づき、納得するまでとことん質問してくる子です
わかりやすい説明の落とし穴は、少し前にもここで書いた通りです
もう、考え方の「癖」がついているのです
「わかる」より「できる」を優先する「癖」です
だから、適当にやって、あたって、「できてしまった」ならば、それ以上追求することはありません
私に質問してきても、私の解法を見て「なるほど」と涼しい顔をして納得し、ノートをとじる子は伸びません
だって、自分の頭をひとつも動かしていないのですから
それでも、その子の責任とは思えません
みんなで知らないうちに、「わかる」より「できる」を優先するよう、育ててしまった
ただそれだけのことなんです
大人達が、みんなして…
私はしつこく、今日も、「なんでだと思う?」と生徒たちに尋ねます
時には、答えのない問題をみんなで考えます
そこに優劣はないのですが、自分の頭で自由に考える習慣がない子には辛い時間かもしれません
それでも私は尋ねます
諦めません
みなさんも、諦めず、子どもたちの「わかる」を大切になさってください
「できる」を優先して、それよりも大切な事をどうか見過ごさないでください
安易な方法で「できる」を獲得しようとすることも、できるだけ、子どもの前では控えましょう
それがすべての手本となります
手元の端末で、全てが「できる」ようになって久しいですが、
それら全ての大人の行動が、子どもたちの習慣に移っていきます
最初の写真は、DKオリジナル教材のひとつ、「古典並べ読みテキスト」です
塗り漢字同様、いつ、大手の教材会社さんが真似をして作ってくれてもおかしくないような、古典の学習には最適な形式のテキストですが、現存する参考書で似たものがなく、20年前から自作しています
入試問題を加えながら、年々、ページ数が増えています
とんでもない時間をかけて作っていますが、今のところ、販売の予定もありません(そんな代物ではございません…)
我ながら、非効率な仕事をしている自覚はあります
効率重視のサラリーマンの夫から見ると、情けないほど非効率な仕事です
教科書も、来年全部改訂になりますから、教科書対応のテキストは全て作り替えなければなりません
それでも、教材作成は楽しくて仕方ありません
うまくいかないから、非効率だから、楽しいのです
大人のみなさん自身が、うまくいかなくても挑戦する姿や、できるかできないかって言ったらできないんだけど、やたら楽しそうにやっている姿を、子どもたちに見せられたらいいなあ~と思ったのでした
「わかった」気になってそれ以上追求しない脳、それは、そもそも思考力が備わっていないためのものなのか
同じプリントを目の前にしても、目をキラキラさせて「これはなに!?」とのめりこむ子と、どこに何を書けばこのミッションが終了するのかを最初から考えて適当に埋める子、どんな塾に放り込もうが、どんな素晴らしい教材を手にしようが、その子自身の思考癖というか、思考習慣までは、大人には、コントロール不可能だと思われます
そういう様子を、そういう大人を、見たこととがあるかないかの、違いかもしれませんね