フィンランドの教育については、以前にも何度か書いたと思うので、今回はとにかくこの動画を多くの人に見てほしい
https://youtu.be/qK20_-MDJYc
『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』というドキュメンタリー映画からの、有名な引用動画です
もう、これを見てもらえば、私が何も書かなくても、伝えたいことは伝わると思います

小中学生が、通知表を学校からもらって帰ってきましたね
「よい・ふつう・もうすこし」とか「1.2.3.4.5」とか、「評価」がなされていたと思います
なぜ、「よい」や「5」ではなく、「ふつう」や「3」だったのか、理由は書いてありましたか?
1年間の学校での学習で、何が達成できて、何が達成に及ばなかったのか、来年度に向けて、具体的に何を努力すればいいのか、アドバイスはありましたか?
「なんでこの科目の評価がこれなんだろう」とある生徒は言いました
どうやら、前の学期の評定が不満で、なんとか1つ評価を上げようと努力したようでしたが、結局変わっていなかったのだそうです
「先生に聞きに行ってみればいいのに」と言ってみましたが、中学生にそんな勇気がある子はほとんどいません
先生との関係も、そんな感じではなさそうです
でも、知りたい、と
次に何を頑張ればいいのか、これではわからない、と
しかも、春休みの宿題も、恒例の内容がどっさり出されました
通知表が2だった子も、5だった子も、全く同じ内容と分量のね

その子の話を聞いていて、私は元麹町中学校長で、現在横浜創英中高の校長先生をしている工藤勇一先生の数々の言葉を思い出しました
生徒たちの通知表を見ると、特記欄にも特に具体的なアドバイスや、評価したランクについての理由はなく、これは、単なる「評価」のための通知表なんだな、とわかるのです
学校で、子どもたちが1年間学んだこと、先生たちが授業をしたこと、それによって、どこまで習得させられたのか、どこまで成長させられたのか、「評価」しているのはわかります
でも、具体的にどんなことができるようになって、ここまでの目標のところ、どこまで達成して、どこまで未達成だったのか、くまなく読み込んでもわかりませんでした
私も長年塾の仕事をしていますから、この通知表の数値が何のためにつけられているのか、知っています
それは、高校入試のためです(あ、小学校の評価は何にも、どこにも関係ありません、おおかた)
高校入試に出願するときに、3年間の「評定」を記録する調査書を提出します
そのための数値です
その数値をはじき出すために、先生方は評定をつけなくてはなりません
評定をつけるためにテストをして、提出物の期限を決めなくてはなりません
つまり、子どもたちの達成度や、理解度を観察したり、その後のアドバイスをするためにテストをしたり課題を出したりするのではなく、その子が意欲的に取り組むかどうかの態度を見たり、テストのためにどれだけ緻密な準備が確実にできるかどうかを見たり、提出物を期限通りに完璧に提出できるかどうかをチェックしているのです
5だったら達成できたのだな、と想像はできます
詳しいことはわからないし、5の子が全部同じ特徴を持っているわけでもないけれど
4以下だったら?何がいけなかったんだろう、と子どもは思います
明らかに5ではないな、と自覚がある子もいるでしょう
でも、テストの点数が同じだった友達と見比べても、評定が違っていることもあります
「関心・意欲・態度」という項目が、低評価だとアウトです
20年以上前に、この項目が重要視され始めた頃、とんでもない事例がいくつもありました
お寺でお坊さんの話を聞くことになった生徒たち
先生たちはお坊さんの話を聞かず、お坊さんの話を聞いている生徒たちをにらみつけています
そして、教室に帰ると、お坊さんの話を聞いた感想文を書かせます
先生は、お坊さんの話を聞いているときの態度を評価しています

似たような経験を目の当たりにしたこともあります
数年前です
学校の行事で、外部からの講師の先生の話を聞く機会がありました
その講師は子どもたちと先生に向けて、とても素晴らしい話をしてくださいました
特に大人たちに言いたい、と、子どもにかける言葉について、子どもの心について、保護者として参加していた私も「そうだそうだ!」と拳をあげて叫びたくなるような、いい話をしてくださいました
ふと、この話を聞いている先生たちはどんな顔をなさっているかしら?と会場を見渡すと、先生たちは生徒たちの話を聞く態度をチェックしている様子でした
しかも、人数を数えると、半数以上の先生方は不在でした
だからもちろん、わたしが拳をあげたくなるほど共感したいい話も、ほとんどの先生は聞いていなかったようでした
そして、生徒たちは教室に帰って、講師の方のお話を聞いて、という内容の作文を書かされます
先生たちはそれをまた、しっかりと聞いていたのか、今後にどう生かすのか、評価する材料にするのでしょう
だって、評価することが「目的」なのですから
今日の話、どうだった?と生徒たちと語り合うこともない
共感できたよ、という子もいれば、違うと思うな、という子もいるでしょう
君ならどうだい?と発言したくてもできなさそうな子をアシストすることも、先生にならできるはず
作文を書くよりずっと、その講演を生かすことができるはず
でも、しません
いいお話だっただろう、ちゃんと感想を書きなさい
ほとんどの場合、そう、命じるだけでしょう
自分の感想も述べずに
あ、そうだ、聞いていなかったのだから感想も意見も述べられませんね

Interviewer 低学年の授業時間は?
Teacher      月曜日は3時間、火曜は4時間 合計で週に20時間よ
I 驚いたな 昼休みも入れて?
T そう
I そんな短時間で何ができる?
T 脳を休ませないと ずっと酷使していると学べなくなる それじゃ意味がないわ

T  問題意識を持って自分で考えるよう教えてる
T  自分も他人も尊重できて、幸せに生きる方法を教える
I   幸せに生きる方法?
T    そう
I  教科は何を?
T 数学だ
I  数学教師の一番の願いが、生徒が卒業後に幸せに生きること?
T そう
I  数学教師で?

フィンランドの教育については、
PISAで世界の注目を浴びるようになってから私もずっと興味を持ってきました
フィンランドの教育いいよね、っていろいろな人たちが日本でも実践しようとしているのも見てきました
でも、フィンランドの先生たちが
上記のような発言をする先生たちが、
どうしてこのような考え方を持っているのか
教育者としてどのような理論を持っているのか
子どもたちの興味を学びに変えるだけのスキルをどれだけ持っているのか

いったい、どれだけの教職課程を経て先生になっていると思いますか?
教師という仕事にどれだけの誇りと価値を感じていると思いますか?
このような大人をたくさん集められたら、きっと、フィンランドの学校みたいな学校が日本にも作れるでしょう

自由に遊ばせるのは簡単かもしれません
子どもにたくさんの時間を用意してあげることも、
いろいろなことをやめれば簡単にできるかもしれません
でも、
私はずっと、子どもの成長過程に、学ぶ時期は必要だと思っています
それは学校であり、
それは教科書であり、
それは、授業と先生という存在でもあります
学びの旬を逃してはならない、とずっと思っています

学校はよくない、教科書なんかくだらない、教科書以外から学ぶ方が豊か
授業はよくない、先生はよくない
そういうことだけを言っている人を見ると、
このフィンランドの先生たちのようには子どもを導けないだろうな、と思います

テレビはよくない
ゲームはよくない
と、それらに依存する子どもを見たときにそれらの「物質」を批判するのと同じです

何だって教科書になる
木に登りたがったら登らせる
でもそれでおしまいじゃないのがフィンランドの先生の手腕

何だって教科書につながる
教科書以上の世界を教科書から教えられる
そういう技術のある先生がいれば、子どもはどんどん自ら学ぶことができるようになる

ただ実際、学校へ行けば行くほど傷ついて、心を痛めてしまう子もいます
日本の先生たちは、そろそろ個人的にどうにかしようと立ち上がらなければなりません
せめて、目の前の子どもたちを、もっと大切に思えませんか


私は小学生とどんぐり問題を、
中学生と教科書を使って子どもの学びに寄り添い続けてきました

どんぐり問題は何も工夫しなくても、余計なことをせず大人がルールを守りさえすれば、
子どもが自動的に豊かな思考力を獲得できるしくみになっています
だから、私が何かを教えることはありません
これが糸山泰造の発明であり、弟子である私は糸山泰造からできるだけ学びとるだけです
その学びを続けなければ、真のどんぐり指導者もまた、生まれないでしょう

中学生は教科書や学校の授業を軸に学んでいきます
私はただ、その扱い方を見せ、教科書をきっかけに世界を広げる手伝いをするだけです
教科書はただの踏み台です
よくできた踏み台です
この春から中学生の教科書が変わります
数学と英語は3学年分、現在目を通しているところです
毎回、教科書が変わると、3年分の全ての問題を解き、全ての英文を訳します

それだけで、子どもたちの踏み台になる場所が見えてきます
ここから飛躍するんだな、と見えてくるのです

日本の学校も、フィンランドみたいになったらいいな
20年以上も前からずっと思っています
でも、
どうやら日本の教育は、まだしばらくは変わりそうもありません

だから私は、この場所で、この小さな小屋で、出会った子どもたちとだけだけど、教科書を踏み台にして広い世界を見る方法を探していきます
教科書も、私も踏み台にして、もっともっと広い世界へ子どもたちは飛躍するのです