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朝早く目覚めたハム太郎は、突然、もっと筋肉をつけようと思い、どうしたら筋肉がつくのかを色々と調べました。
その結果、筋肉豆腐の4/5が蛋白質で、その蛋白質の1/2が筋肉になることをつきとめました。
では、100gの筋肉をつけるには筋肉豆腐を何g食べるとよいでしょう。

以前からずっと気になっていたけれど、ここ10年くらいかなり深刻な状態だなあ、と感じるのは、子どもたちの「数量感覚・言語感覚の乏しさ」です

たぶん、お皿におかずが取り分けられているのを見て、どちらの方が多いとか少ないとか、そのくらいの感覚はあるのかもしれません
でも、もしかしたら、そういった食卓を囲んでいる時間の中で、何気なく交わされていた会話が減っているのかもしれません
「こっちが多すぎるからちょっとそっちに移そう」とかそういう、親の何気ない言葉、ひとり言も含め…が、減っているのかなあ、と想像したりしています

30年近くずっと言い続けているので、まさかとは思いますが、食事中にテレビがついている状況などもってのほか
まさかスマホや動画配信を見ながら…聴きながら…食事している家族もないとは思いますが、あるとしたらそれらが子どもたちの基礎学力にどうしても影響してしまうことは知っていてほしいものです

ちなみに、どんぐり学舎では、食事中、車で移動中(群馬はどこへ行くにも自家用車移動です)のテレビ、オーディオはオフが基本です
ほんの数年間ですよ
一生そうして、って言っている訳ではないのです

どんぐり学舎に送っていただく車内で、イマドキの音楽を聴きまくってきたらしき生徒が、いつまでも鼻歌を歌っていて話を聞けなかったり、問題に集中できなかったりすることがあります
イマドキの音楽がいけないなんて全く思っていません
ただ、子どもの脳が、大人のそれとは違っていることを、大人はもっと知らなければなりません
スイッチをオフにすると脳内から音楽が消え、さ、仕事に集中しよう、ってできる大人
または、音楽を聴きながら集中できる大人とは違うのです(大人だってできない人はいるし…)
特に、魅力的な音楽ほど耳に残りますから、子どもの脳内が埋め尽くされ、なかなか払拭できないのも少し考えたらわかりそうなものです

「そんなことしていません!」と私に堂々と事実と反することを言っていた家庭も実際にあったので、本当のところは私には知るよしもありません
探偵のように調べる気もありません
だって、全て自分たち家族に返ってくることだから
ただただ、それぞれのご家庭内で考えて行動に移していただくほかありません

もしかしたら、そのことそのものだけが影響しているのではないかもしれません
なぜだか、並行して、そんな日常会話が減っているのにも関わらず、子どもには、早め早めに文字や数字を教え込む傾向が強くなっている気がしてなりません

そう、体験もないのに、記号が入ってくる、あの恐ろしさを、普通の方はご存じないんだと思います
普通の方…なんと言いましょうか、子どもの学習状況を見続けている私にとって、そんなことはごく当たり前の、初歩的なことなのに、専門家でもない一般の保護者の方々が、さも当然、という感じで、就学前の子どもに文字や数字を教え、早く習得させようとすることが、危なっかしくて見ていられません

でも、わかります

不安なんですよね
少しでも、みんなから遅れをとらないように、勉強で苦労しないように…
そんな親心から、数字や文字を教えるくらい、誰にだってできる、と思って取りかかるのでしょう

でも、
私は、もし、私が文部科学省のエライひとだったら、数字と文字の導入には、最も高度な技術と知識を身につけた専門家を送り込みます(まずはそんな専門家をたくさん育てないとならないけど…)
日本人の大人のほとんどが文字を書けて、読めて、数字を書けて、読めますから、誰にでも教えられる、と思っている人が多いでしょう
そう、教育の専門家ではない人にだって、親にだって

でも、私が見る限り、未就学の子どもに数字や文字を教える時点で導入を誤っている例、また、小学校低学年での導入を誤っている例は年々増えているように思えます

それは、家庭内での数量体験の乏しさと反比例して

だから、
小学校高学年になって「割合」の単元が出てきたときに、混乱する子が多いのです

「全部で40人います」と書いてあるのに、答えに「800人」とか書いてしまったり、
「50gの20%は」と聞いているのに「100g」と答えてしまったり

それは、割合の公式を覚えていないから、とか、%の意味がわかっていないから、とか、
それ以前に、
「全部で40人います」って書いてあるのにどうして答えがそれより多くなるの?ってところに、何の疑問を持たないのか?ということなんです

たとえば、
40×20=800
という数式を見ても、
40×20=80
という間違った数式を見ても、
ああ、間違ってるな、ゼロが少ないじゃないという風に気づくかどうかくらいの違和感があるくらいです
でも、
「全部で40人」なのに、その一部を答えるような問題で答えが「800人」になるのは、
文脈としてもおかしい、と気づかないのです

最初に挙げたどんぐり問題では、
豆腐の4/5(5分の4)が蛋白質で、その蛋白質の1/2(2分の1)が筋肉になる、というものですが、この子は色分けをして、蛋白質と筋肉を正確に描き分けています

4/5ってなに?と尋ねて、「5つに分けたうちの4つ分」と言葉で説明できる子は案外少ないです
そして、4/5がだいたい、このくらい、っていう見た目の感覚も、持っている子は少ないです
1/2なんて、「分数」を学校で習う前から日常会話で出てきそうなもはや「言葉」の一種だと思うのですが、1/2=半分=50%っていう、「言葉」も一致していないくらい、数量感覚がありません


これさえあれば、なんて「円マーク」「テントウムシ」とかいうこれをノートの隅に書いて、
なんとか式を立てて答えを導いたとしても、「800人」と誤答したところで気づかないのです

「どっちが多いか少ないか」という、ごく単純な感覚が乏しいからなんです
なぜ乏しいのかは、話が最初に戻って、日常生活で体験できなくなったことはもちろん大きいとは思うのですが、やはり、それに拍車をかけて、就学前に文字や数字を…ただの記号なのに、体験もないままその記号を教え込んでしまうことや、低学年から計算練習や文字練習をせっせと作業としてさせすぎることにあると私は思っています

未就学児や1年生くらいの子が授業体験に来たり、初めてどんぐりを解いたりすると、結果は大きく二分されます
それまで文字も数字も全くタッチしていなかったご家庭の子と、
ある程度数字や文字、簡単な計算などをご家庭で教えていた、幼児教室などで算数や文字を習ってきた子とでは、
前者の方がどんぐりにスムースになじんでいきます
当たり前に全部の絵を描いて、当たり前に描いた絵を数えます
まあ、単純に、数字を知らないのですから
でも、後者の場合、「計算でできるよ!」と誇らしげに数式を書いて見せたりして、絵が不足したり、絵より数字が書きたくて雑になったりする傾向も強いです

計算でできるよ!という子に、書いた計算の真意を尋ねてみても、説明できる子はほとんどいません
それはそうです
意味もわからず、「こういうときはこういう式を立てる」と誰かに教わって知っているだけですから、ただ「形」を知っているだけで、中身を知らないのですから
それでも、どんぐり学舎では最短でも3年生までは「数式禁止」ですから、「ちぇっ、しょうがないな、どんぐりだから全部絵にしよう」と開き直って、描くようになります
そうなったら大丈夫なんですけどね

たとえば私は「=」の存在をとても大切に思っていて、これが、私たちの生きる世界のバランスを表しているとさえ思っているのですが、小学校1年生からもう、「=」を、「は」として教え込んでしまうのが本当に難しいことなんだけどなあ、と思っています

それは先ほどの円マークを教え込むのと同じくらい、
慎重にこちらがプロとして準備をして教えなければならないことです

使いこなせるのか?今の段階で教えて大丈夫か?と常に考えているのです
私がエライ人だったら、小学校でも3年生までは数式を使わないで算数の授業をするけどなあ
四則の基本くらい、全部校庭でできるけどな~(遠い目…)

小学校1年生の「1+1=2」なんてたいていの大人が教えられるでしょう
でも、
中学1年の一次方程式や、2年の連立方程式、3年の二次方程式の文章問題を立式する時に、「=」の存在意義を理解しながら正確にできる大人はどれだけいるでしょうか

左右のバランスを正確にとりながら(=をはさんだら、左右まったく同じでなきゃいけない)式を立て、解いていく
その基本を小学校1年で、「体得」する必要があるのです
数学的な理論を教え込むのではなく、
必要なのは「体得」なんです

昔は当たり前に、子どもだけで、遊びの中で体得できたことや、
家庭生活の中で当たり前に体得できたことがほとんどできなくなってしまった昨今、
意識して子どもの育つ環境にその要素を探しながら私自身はやってきました

私自身の子育てでは、だから、どんぐり問題以外の何にも必要ないと思ったし、
昔のような環境ではないことで今、この時期に排除すべきことはこれだな、と見極めて気をつけてきたのです

子どもを授かる10年前から塾講師をしていましたが、子どもが小学校に上がるまでは数字も文字も教えませんでした
それが当時も今も変わらない私の確固たる信念です
(今でも我が子に何かを教えることはありません。我が子は塾生じゃないし…)
学校より先に数式を教えたり、公式を覚えさせたりすることも一切しませんでしたし、
そもそも宿題をやらせないので、家庭学習は週1日のどんぐりのみでした

昔は当たり前で今は自然に獲得できなくなっているような数量体験や、言葉とのつながりは、どんぐりで全て補えると確信していたからです
もちろん、できるだけ、家の中では子どもたちが自分で考えなければ進まないような状況を整えました
簡単に済ませられる便利なものを遠ざけ、大人に便利なものは避けました
それでも、現代の子育てでは限界があります

だから、暇さえあれば自然の中へでかけました
私からしたら、「自然先生」に救いを求めていたのです
自然の中は数字で表せない数量感覚が研ぎ澄まされます
もちろん、それ以外の感覚も研ぎ澄まされます
机に向かってするどんなことよりも大事な授業です

たとえば斜面を歩くとき、子どもたちは自分の体のバランスをとるために工夫しなければなりません
流れる川の中で遊ぶ時は草の上を歩くときとは違う力の入れ方をして歩かなければなりません
木の枝にぶら下がろうとするとき、見た目に細い枝や太い枝があって、そこまでの距離があって、それらを選びながらつかんで登らなければなりません

例を挙げきれないほど、「自然先生」に我が子が教わったことは多いです
私には教えてあげられないこと、そして、もう2度と、あの時期と、あの感覚は取り戻せないかけがえのない大切な時期の大切な体験であったと確信しています

「日常的に」「豊富な」自然遊びをするのは、田舎の地方都市の隅っこに住んでいる私たちでさえ、簡単なことではありません
都会で子育てなさっている方にとっては、想像はできても実践はもっと困難かと思います

でも、「すべきこと」と「すべきでないこと」のうち、「すべきでないこと」をしないでおくのは誰にでも、どこに住んでいてもできるはずです

子どもたちの数量感覚と言語感覚を健全に育てるために「すべきでないこと」の上位に入るのが、就学前の子どもに数字や文字を闇雲に教え込むこと
体感もないまま等式を安易に教え込むこと
小学生になってからも、宿題で作業的に反復計算練習をさせたり、パターン学習をさせたりすること

それらが、本当にずっと、子どもの思考を硬直させ、呪縛し続けることを忘れないでください

いずれ、正しく覚え直せばいいじゃない、と簡単に言わないでください
私は中学3年生までが専門ですが、
中学生になって、小学生のころ「真面目に」「誠実に」努力をしてきた子ほど苦労している姿を何度も見ています
先生に(親に)言われた通りにやってきたのに…これさえ覚えておけば大丈夫、って言われたのに…と涙を流した子もいました
じゃあ、覚え直せばいい、と簡単にはいかないのです
なんと言いましょうか
微動だにしない、脳内にこびりついて、剥がれない思考というか、思想というか…それを払拭する手伝いは全力でいつもしますが、本当にしぶといのです
誰よりも、本人が一番苦しいのです

そして、その頃になると、幼児教室やお勉強を教えた園の先生、小学校の先生すら遠い存在だし、親は決まって言うのです「頑張ればできるのに」「努力が足りない」「勉強の仕方がわからないだけ」

いつも言いますが、定点観察している私には見えています
その子の努力不足ではないことが

成績が数値化される頃に後悔しても遅い、という恐ろしいお話でした
数字や文字を教え込む前に、立ち止まって考えてください
数量体験、言語体験が豊富かどうか

さとちゃん式ちびっこ算数・言語体得教室やりたいな~とずっと何年も考えています
プレどんぐりとでも言いましょうか
お家でどうしたらよいかわからないなら、一緒にやろうか、って
なーんにもない野原や森でできるぞ~!!!
ねりねりねりねり構想中……