(くらで6年生男子が作ってくれた美しい作品)

2年前のブログから

ゲームを友達の家でちょっとしようが、
テレビをちょっと見ようが、
全く影響を受けない子もいました

「それはそれ」とさっぱり

そういう子たちの共通する特徴は、
「キャパシティが大きい」ことと、「エネルギーに満ちている」ことでした

私の知る限り、
幼少期にそれらは育まれ、大きく成長します

そのためにはどうしたらいいの?という話はまた別の機会に

はいー
でました「この話はまた別の機会に」
これ実はエンデへのオマージュで…

少女さとは、エンデのこの言葉を信じ、
全てのエンデを読みたかったからずっとずっとずーっと、
そのスピンオフ作品が出版されるのを待ち続けていたわけで…
どんな続きがあるんだろう、
どんな風なんだろう、
ずっとずっと、想像してわくわくしていたので…でも、
エンデは天国へ旅立ってしまいました
少女さとが大人になってからですが
死後出版された全集を買いましたが、
結局、スピンオフ作品が世に出ることはなく、
エンデが少女に投げかけてくれたこれらの物語の全ての続きは、
少女の中に実は育まれていたわけで
わくわくしながら想像した、それらが全てそれだったわけで

私も、
「今は書けないけど、あとで書こうっと」と、本当に思いながら書いていることもあるし、
読んでくださっているみなさんの中で続きを考えて育んでほしい、と願いを込めていることもあるのですが、いずれにせよ、この言葉に関する質問が届くのは実はとても嬉しいのです

あ、書いていいんですか?それじゃあ…と、許可をもらった気持ちになって、また一生懸命書こうと思えます

そんなわけで、この、2019年4月9日のブログのこの言葉に対し、ご質問が届いたので、今日はその「別の機会」を作ろうと思います

実は、随分前にいただいていた疑問でしたが、
10月になるまで、書き出しで止まっていました…
なぜなら、子どもたちを取り巻く今の環境が、苦しくて、つらくて、悲しかったからです

外遊びをしていて、「マスクをしていないのか」と注意されることがありました
学校からは「友達の家に行ってはいけない」と注意されました
学校生活唯一の楽しみ(である子が多い)給食の時間は、全員で前を向いて黙食
まわりの全てが「バイ菌」であるかのように、1日何回も消毒をしなければなりません
放課後気ままにふらつくことも許されず、
家の中に籠もるしかない時期がありました

そんな子どもたちを見ていて、
「もっと外遊びを」
「もっと子どもを伸び伸び自由に」
と、ご家庭に伝えることは、酷なことだ…と胸を締め付けられていました

他のことも、書きかけては「でもな…」「今はね…」と、躊躇してアップできなかったことも多々ありました
動きたい、遊び回りたい盛りの子どもたちのいるご家庭の御苦労を想像すると、たまらない思いでした

なんちゃら宣言があっさりと明けて、だからどうした?という相変わらずの生活ですが、
少しだけ、「もういいんじゃないか」という気持ちが各ご家庭にも、子どもたちにも、もしかしたら学校にも、芽生えてきたかもしれない…という期待も込めて、書きかけの投稿を今日こそ完成させようと思います

まずは、2年前のブログを一度、読んでいただいて、それから、「別の話」を続けたいのです
お願いします

たくさんの子どもたちと接していると、
同じ場所で同じことをしていてもそれぞれが全く違うなあ、と思うことは多く、そんなの当たり前です
ご自宅で、我が子しか見ていない親御さんには見えないことですし、
また、特に、子どもの活動時間に大人だけの職場で仕事をしていて、夜に帰宅する立場の親御さん(現時点では、多くはお父さんでしょう)の場合、もっと「我が子しか知らない」状態だと思います
子どものクラスメイトどころか、近所の子とさえ交流はなく、学校行事にもほとんど参加していませんよね
運動会を見に行く、とかじゃないですよ
参観日とか、懇談会とか、ボランティアとか、役員仕事とか、勉強会とか、そういうものも含めて、私の見る限り、9割以上が女性ですから、男性が「子どもの現状を知らない」のは明確です
知識あるなしではなく、「現状を見ていない」のは事実です
それで、そういうのに参加した妻の話を興味深く、我が子、我がこととして聞こうとする夫の割合も、そう多くないのではないかな、と感じます
みなさんはどうですか?そんなことはないですか?
もちろん、男女に関わらず立場上のことですし、ひとり二役を頑張っている方もたくさん知っていますからその場合には無関係な話です

とにかく、
「子どもの現状を知らない」のに、「そんなもんだろ」と決めつけている方の多いこと
そして、「自分はこうだったから」とこの激変している子どもの育つ環境を、真剣に確認しようとしない方のなんと多いことか

正直、現在子どもを取り巻く環境はそんなことを言って放っておいたら大変なことになってしまいます
学校に行かない選択をする子どもが増えているのも事実
小学校1年生に上がる前から、もう学校に行けない問題が生じています
学校に行き、真面目に授業を受け、宿題をこなすことで「賢く」育つ子は少なく、普通にしていただけなのに、いつの間にか落ちこぼれていく
それでも、どんな嵐が吹き荒れても動じない子もいます
エネルギー量が豊富で、心と頭脳のキャパシティが大きい子たちです
そんな子たちに何人も、出会ってきました

結論から申し上げると、子どものエネルギーのキャパシティを決めるのは、幼少期の親たちなんです
もちろん、小学校時代の親たちの役割も生き方もとても重要です
でも、幼少期から意識できた親御さんの子どもたちを見ていると、その量は比較になりません
これは誤魔化しようのない事実です

たとえば子どもの前で使う言葉
子どもにかける言葉でも、子ども以外の誰かに使っている言葉でも同じです
子どもに聞こえている言葉は、全て子どもに影響しています
夫婦げんか
親子げんか
子どもにかける言葉、叱る言葉、全てです

買い与えるもの
前述したように「現状を見ていない」「現状に関心を持たない」ばっかりに、みんなが持っているから、みんながしているから、という安易な理由で買い与えたものによって、キャパシティが狭められることがあります
ゲーム、テレビ、動画サイト、スマホ、一昔前なら、「園児」等がそれらと普通に接触している状態は、「異常」だと思う大人が多かったのですが、今では何の違和感も持たない人がほとんどです
大人の感覚が麻痺し、古来からほとんど変わっていない人間の進化、子どもの発達に妨害が入ってしまいます
育つはずのものが、そこで滞ります
視聴覚力、触覚、身体能力、心の発達、言葉の発達、他者とのかかわり…全てに影響します

習い事
早いほうがいい、と早々に調べて一生懸命よいお教室を探し、子どもを外注に委ねてしまいます
もちろんそんな深い意味などなく、「買い与える」のと同じで、みんながしているから、お友だちがいいって言っていたから、テレビで特集があったから、有名人が話していたから、子育て名人の本で読んだから、という安易な理由で始めることが多いです


さて、じゃあ、上記のようなこれらを、完璧に気をつけて、排除して…そうすれば、子どもは健全に育ち、高度な思考力を手に入れるのか?というと、そうではありません
これらを意識することは、高度な思考力を手に入れるための下準備に過ぎません
そして、これら全てが「悪」なのではなく、使い方が間違っている人が多すぎるのが問題なのです
これら全てを意識できて、知った上で覚悟を持って子育てに取り入れることができるなら、間違った使い方はしないで済むのではないでしょうか

ただ、私の場合は、職業柄もあるし、子どもを授かるまでにすでに子どもと関わる仕事を10年近く続けてきていましたから、それらの全てを「排除」することはなんの苦痛でもなく、ごく自然にできることでした

みんなが見せているからテレビを見せなくちゃ、と思ったことは一度もないし、みんな持っているからゲームを買わなくちゃ、と思ったことも一度もないし、長女を出産直後にどんぐりに出会っているので、年長さんになったらどんぐりができるー!と楽しみに5年間待ったくらいですから、他の早期教育など考えたこともありません
どっさり送られてくる通信講座のDMに心を動かされることも一度もありませんでした
子育て中の友人たちは、ひとり、またひとりと陥落(失礼…)していき、2歳から英語だとか、スイミングだとか、1年生から塾だとかスポーツ教室だとか、どんどん忙しくなっていきました
私たちは相変わらず、モモが住む円形劇場にいるかのように、周囲のバタバタを不思議に見つめていました

当時の子どもたちにタイムマシンで戻ってインタビューしたら「ほんとはテレビが見たかった」「ゲームが欲しかった」と言うかどうかわかりませんが、現時点では、「テレビを見せてもらえなかったから嫌だった」「ゲームを買ってほしかったのに言えなかった」というようなことは思っていないと思います
なぜなら、
娘たちは、自分たちがどう育っているのか、そろそろ気づいていると思われるからです
まだ絶賛現役学生の彼女たちの邪魔をしたくないので、これ以上個人的な話はしないでおきますが、このように変わった親に育てられても、娘たちは情緒豊かに、賢く、優しく、健康に、大らかに、エネルギー豊富に、キャパシティも無限の素晴らしい人間に育っていると私は思います(親は全然そんなんじゃないのにです!笑)

全国シェア99%の紙おむつを一度も使わなかった時点から、私の、時代遅れでダッサダサの「変な親」の歴史は始まりました
でも、私が敢えて、「変な親」になろうとしたのは、とにかく、子どもたちの育ちを邪魔したくなかったからです
子どもたちがこれから自分の中で育んでいく可能性を、できるだけ邪魔せず、できるだけ伸び伸びと育ててあげたかったからです
誰か、他の「親」と比較して、自分を特別な親だと思いたかった訳ではありません
私の目には、子どもたちの未来しかありませんでした
子どもたちがいつか、自分の将来を選ぶとき、自分の足で立って歩くとき、私がしてしまったことが妨害になるようなことだけは、できるだけ避けたかったのです

なんでそんなこと思ったのか
それは、子どもが将来を選ぶとき、子どもが困難にぶつかったとき、どうしても不足しているエネルギーのためにどうにもならない、という生徒を見てきたから
どうしてそんなことが起こるのか、と紐解いていくと、子ども自身の人生のことなのに、親御さんが必要以上に関わって、明らかに妨害電波を発してしまっている例を、たくさん見てきたからなんです
子どもに、必要な時期に必要なものを与えず、必要でない時期に必要でないものを与えすぎている親をたくさん知っていたからです
一見、満たされているようなご家庭でも、末端の子ども、最も重要な子どもという存在に、全ての皺寄せが集まっている例を、悲しいけれどたくさん目撃してきたからです

それは親の見栄のため、名誉のため、世間体のため
そして、親の自己実現のため、子どもを作品化してしまうという誤解のため

子どもが成長するにつれて、それら、親のエゴは子どもによせられた皺の部分から、徐々に腐敗していくのです

気づいた時には、子どもには、それに耐えうるだけのエネルギーも、容認するキャパシティも残っていなかった
そんな例を、知っているのです

そこまで深刻でなくても、身近な例がたくさんあります
どんぐり問題が順調に進まない
よく他人のSNSやブログで見かけるような素敵な作品とはほど遠い
なぜだろう…
なぜうちの子はこんななんだろう…

中学生になって、成績が数値化されてくる
思ったような成績ではない
なぜだろう…
あんなに時間があったのに、何をしていたんだろう…
どうしてうちのこは、もっと一生懸命勉強しないんだろう…

いざという時、精神的に逃げ腰になってしまう…どうしてもっと挑戦しないんだろう…

そんな風に、子どもに「症状」が出たときに、不満や不安が向かう矛先は、どこですか?
まさか子ども自身に向けてはいませんか?

それが、答えなんです

どうして矛先をご自身に向けないのでしょう
その方がずっと楽なのに
子どもと暮らしている間、最も影響を与えている大人、私たち親は、
どうしてもっと子どもの育ちに責任が持てないのでしょうか

どう転がっても、親子は親子
他人にどう思われようと、どう評価されようと、
小さな家で生まれた時から一緒に暮らしてきた、子どもと私たち親

得体の知れない流行のものに子どもを委ねたら、
そりゃあ、親にはわからない部分が勝手に育ってしまうかもしれません
そうなったら「うちの子がなんで!」ってびっくりしちゃうかもしれません
でも、たぶん、それらに出会うきっかけを与えたのは、親御さん自身です

それなのにまるで、子どもが勝手に出会って勝手に変貌したような、
他人事のような愚痴や悩み
あまりにも無責任です

心身共に、伸び伸びと自由に過ごせる時間と環境を足りるだけたっぷりと与えられなかったのに、ある程度の年齢になると「なにごとにもやる気がない」「好奇心がない」「向上心がない」と不平不満をいう親御さんも多いです
小学生の頃は親の感情をまあ抑えられても、中学生になったら急に「自律心がない、自分から勉強しない」と子どもの成績表を見てはため息

やはり、矛先は子ども

矛を、
そもそも、引っ張り出す必要なんてないと思うんですよ
常に自分の胸に矛を突き立てて生きよ、なんて私は思いません
私だって普段はしまってますよ、ちゃんとサヤにね
でも、子どもに何かあると、まず自分を省みるんです
あれ、もしかして…もしかしたら…
子どもに矛先を向けたりしません
だって、嫌でも私を、私たちを見て育ってきたんですから
その責任を私が負わず逃げてしまったら、
子どもに押しつけてしまったら、子どもはますます苦しむことになります
我が子を苦しめるなんて、親として最も辛いことではないですか?
そんなことになるくらいなら、私は自分が苦しむ方がいい
なんなら、自分とは関係ない苦しみだって子どもから取り除いて私が全て請け負ってあげたいくらいです
小さい頃、痛いの痛いの飛んでいけ、ってやって、痛いのぱくって食べて、もぐもぐしたら涙を止めてくれたあの頃のように

話が随分と逸れてしまったような気がしますが、
結局、幼少期に決まってしまう子どものキャパシティ、エネルギー量、それは、
本当の意味の自由を、子どもに用意してあげられるかどうかにかかっている、と私は思っています

子どもの好きなことを好きなようにやらせることが「自由」だと勘違いなさっている人がいますが、それは違います
子どもは、生まれた環境で目の前にあるものに普通興味を示します
子どもの目の前に何を置くかは、大人次第ですよね

私は、たとえば、プラスチックの玩具や、音の出る玩具、表情や性格の決まったキャラクターグッズ、遊び方が決まっている玩具やゲームをある時期まで子どもの前に置かないようにしていました
毎日庭に出たり、できるだけ人工的でない「自然」を探しました

記憶に残るわけないでしょう、という月齢の頃から、最も大事な時期はそこだと信じていたので、子どもの目に入るものには気を配っていました
いくら気を配っていても、赤ちゃんと暮らしていると、「家の中って不自然な物が多いなあ」と感じました
だから、できるだけ外に出ました
家から一歩外に出ると、風が吹き、何かが香り、いろいろな音がしました
赤ちゃんは目をくるくるさせて、追いかけきれない刺激に夢中でした
季節によって植物は違いました
飛んでいる鳥も違いました
よそのお宅の家庭菜園で実る野菜も違いました
水路の近くにいる虫も、季節によって変わりました
それがなんなのかはわからなくても、些細な自然の変化に、小さな心を動かしているように見えました
赤ちゃんが成長して、手を動かしたり、足を動かしたりするようになれば、刺激は変わっていきます
ただ眺めるだけだった自然が、触れられるものになります
歩き出せばもっとです
走り出せば、もっともっと、です

自然は、遊び方など決まっていない天然の玩具で溢れています
幼児期になり、他者と関わって遊ぶ時期には、自然遊びの中で協力したり、団結したりする気持ちも味わったかと思います
小さな部屋の中で、人工的な教具や遊具で味わうそれらとは全く違う種類のものです

とはいっても、私の住む町が、自然豊かな町かというと、そんなことはありません
都会ではありませんが、身近に、豊かな自然があるわけではない、住宅や農地、工場の多い、地方都市の隅っこです
でもたとえどんな都会であっても、
室内と屋外では刺激が違います
どんなに素晴らしい環境を整えても、室内で育まれるものと、一歩外に出て味わえるものとでは、比較にならないのです

時々、自然遊びしてまーす、と、バリバリのアウトドアライフを満喫していらっしゃるご家庭でも、同時に人工的なテーマパークにしょっちゅう出かけたり、高度な玩具などで室内を満たしたりしていると、たぶん、ささやかな自然の刺激を味わう感性は育たないと思います
それはまさにsence of wonder
自然の中で研ぎ澄まされる感覚、あらゆるものを不思議に思い、興味を抱く自然な感情、そういう感覚が子どもの中で丁寧に、ささやかに、美しく育まれる大切な時期に、何を見て、聞いて、感じて過ごしたか、ということはとても大事なことなんです

自然の中で見つける小さなかわいい生物は、決して笑いかけてはくれません
握手もしてくれないし、近寄っても来ません
それでも、じっと静かに待っていると、ありのままの姿を見せてくれることもあります

一方、人工的に可愛く作られたキャラクターが近寄って来て握手をしてくれたら、
子どもは喜ぶことでしょう
自分から駆け寄っていって、抱きつくこともあるかもしれません
自然の中の小さな可愛い生き物より、ずっと愛想が良くてフレンドリーです

絶対にいけないのです、なんて言っていません
そういう比較をして考えてみると、わかりやすいかもしれない、という例です

そして、やっぱり、子どもにとって記憶に残るかどうかという微妙な時期にこそ、
実は、できるだけ自然な、ささやかな刺激を浴びることが必要なんです
人工的で大げさな刺激を与えすぎること、日常的に浴びることは、それら、ささやかな体験から得るはずだった、育まれるはずだったものを、受け入れなくなる恐れがあるのです

それが子どもにとってとても重要な「原体験」というものなんです

これから子育てを始める方は、どうか「原体験」の重要性を知ってください
そして、子育て中で子どものキャパ見えたり!という状態の方は、
今後、そのキャパを広げることは不可能であることを知ってください
それを、悲観せよ、とは言っていません
どんな状態の我が子も、大切な我が子でしょ
自分と一緒に暮らしてきた、自分を手本にここまで成長した大切なかわいい我が子でしょ
そこへ矛先を向けるなど、どう間違っても絶対にしないでください

同じキャパでも、同じエネルギー量でも、それをどう使いこなすか、
そういう自分とどうつきあっていくのか、それが私たちも含めみんなそれぞれの課題です

糸山先生はおっしゃいました
人間30%の力でも生きていける
ただ生きていくだけならそれでいい
でも、
人生を楽しむためには30%の力では不可能


30%しか使ってないなー
と、見える子がいたら、さあ、残りの70%をどう引き出すか
矛先を子どもに向けていたら、伸びる物も伸びません
残りの力が膠着してしまいます

実際には、誰にも見えない、その人のエネルギー量、キャパシティ

もし、育ててあげられていなかった、と反省している方がいたら、
育まれるはずのsence of wonderを壊してしまっていたかもしれない、と思う方がいたら、
今度は、その子が持っているエネルギーを有効に使うためにどうしたらいいのか、
いろいろな経験を重ねながら一緒に乗り越えていけばいいんです

でもまあ、一緒に乗り越えられる時期にも期限があります
子どもたちはいつか独り立ちするのです
一緒に暮らし続けたとしても、親とのつながりは、年齢相応に、変わっていくのです
いま、まだ、子どもの視界の真ん中にみなさんがどん、と存在しているのだったら、
まだまだ、一緒に乗り越えられるんです
そこで、また、安易に外注に出したりしなければ、
今度こそ、自分の手で、子どもの環境を整えることができれば、
子どもが自律するために必要な力を、成長させることができるはずなんです

どうしても、無理…難しい…と、あまりにもつらくて、その矛先の行き場を見失いそうになったら、連絡してください
一緒に考えてみましょう

大丈夫
私たちは親なのだから

私たちが逞しく生きることで、見せてあげられるんですよ
今度はその対処法を見せればいいんです

「別の機会に」のリクエストにお応えしました
みなさんからのリクエスト、いつも嬉しく受けとっています
読んでいただけているだけで幸せなのに、メッセージをいただけるのはこの上ないです

ありがとうございました