「直線時計」を上手に使っている子です
時間は一直線に進むもの
同じところをぐるぐる回るものではありません
いま何時なのか、何分前は何時何分だったのか、何時間後は何時何分なのかは、イメージとしては直線で考えています
それを描くのが「直線時計」です
糸山先生考案です
私は、全ての子どもに最初からこの直線時計を「教える」ことはしませんが、少し様子を見て、「時間は一直線に進むもの」という感覚を持っていないようだな、と感じた場合、教えています
もうすっかり理解できた後でも、こうして、時間を考える時には直線時計を必ず描く、と決めている子もいるようです

時間は一直線に進むもの、という感覚は、時計など読めるようになるずっと前、幼児期にはもう、生活の中で自然と身についているのが理想的です
どうしたらその「時間感覚」が身につくのか、ということを考えてみると、なんということもない、時間の流れを、体で味わってきたかどうか、時計を目にするよりも、時間の読み方を知るよりもずっと前に、時間が止まることなく流れ進んでいることを体感していることがとても重要なんだと思います
では、どうしたら時間の流れを体感できるのか
そのチャンスは、当たり前の日常生活の中で、また、子どもの遊びの中で、いろいろな場面で普通に転がっています

たとえば「待つ」ということ
勘を働かせ、ある程度の時間をじっと待つこと
それはかくれんぼ、それはろうそくに火をつけること、それはお手伝いの中で、虫の動きを見ながら、山登り、山歩き、川流れ、海潜り、乗り物に乗って目的地にたどり着くまで
たとえば「計る」ということ
それは水を溜めること、かけっこ、これもお手伝いの中で、息を止める競争、ストップウオッチでもなく、時計でもなく、体感で時間で遊ぶこと

そういう経験が、大人の導きや手出しなくして豊富にあったならば、子どもは時間感覚を理屈でも知識でもなく体感した状態で小学生になり、そのあとで、「時間」を「読む」ことを知ることになります

でも、今や、大人も「待つ」ことを避けるようになり、「計る」ためには何か計測器を使うのが普通です
たとえば数分の待ち時間でもすぐにスマホを触るでしょうし、時間を計るには正確に、とスマホのタイマーを使うでしょう
私だって必要に応じて使っていますし、待ち時間にスマホを見ることだってあります
でもまあ、そういう姿を子どもに見せないために、子どもが小学生の間は私も夫もスマホを持ちませんでしたけれど

自家用車での移動中には、子どもにテレビや動画を見せ、「まだ着かないの~?」と騒がれるのを防ぎます
最近では、買い物中に騒がれないために、カートに乗せた幼児にスマホを触らせておく様子を見かけるのにも慣れました
野山を歩いて、見知らぬ生物がいればその場でスマホの画像検索機能を使ってすぐに調べることができ、それは素晴らしいことだ、と自然遊びの世界でも重宝されていたりします
知らないことをすぐに知ることができるのはよいことだ、とみんな信じているからです
そんなことを「待つ」ことで、なにもいいことはない、と信じているからです

でも、果たしてそうでしょうか

時間は一直線に進んでいます
同じところをぐるぐる回るのではありません
でも、部屋の壁にかかった「時計」も、手首につけている「時計」も、
同じところをぐるぐる回っています
同じところをぐるぐる回って、1日に2回「5時」を指したりします

子どもが、「時間」よりも先に「時計」に出会ったら、
そりゃややこしいだろうなあ、と思います

「時間」を体感するよりも前に、「時間」なんて言葉も知らないうちに「時間」の流れを心身で味わい尽くす前に、「はい、これが《時間》で、それは《時計》を使って読み、計ります」と教えられたら、はいそうですか、と素直に受け入れることができるのでしょうか

見知らぬ生物を見て、
こりゃなんだ?と不思議に思い、何者かわからず、ずっと気にかかり、家に帰っても気になり、図書館に行って図鑑を見たり、物知りの人に聞いたりする「時間」は、無駄で、
すぐその場でパッと答えが出る方が効率的でしょうか

私はそうは思えません

そこに、「子どもの世界」と「大人の世界」との線引きは必要だと常々感じています
私の体感では、中学生以上の子どもと、未満の子どもとの間で大きな壁を作る必要があると確信しています
その壁には扉があって、鍵がかかっています
その鍵は、小学校の最終段階から少しずつ、子どもたちは手にすることになります
正直、「まだ鍵は渡せないなあ…」と思う子であっても、中学生になれば誰でもその鍵を手にすることになります
だから、中学生になったら壁の向こう側に、誰しも行けるようになります
でも、「待つこと」、「ずっと謎が解けず不思議に思うこと」などの経験が少ない子が壁の向こう側へ行くと、だいたい、似たような状況に陥ります

それを私は、長年、見続けてきました

もちろん、待てません
そして、謎を自分からなんとかして解こうとしません
「時間」よりも先に「時計」を知った子は、
「時間」の概念なんかいいから早く「時計」を教えろ、と言わんばかりです
そういう思考癖がしっかりと身についてしまっています
そりゃそうです
小さい頃からずっと、そういうものだと思って生きてきたのです

そういう子を、待たせたり、考えさせたりするのは一苦労です
すぐに飽きてしまい、苦痛を訴えてきます

親御さんはそんな我が子を見て思うでしょう
「もっと効率的な勉強法はないのかな」

そうでしょうね
小さい頃から、待たせず、すぐに解決せずじっくりと考えさせ、なんなら答え合わせもしない、なんて子育てを、してこなかったのです
全てに手っ取り早い解決法があると、自ら子どもに教えてきてしまったのです

中学生になってからそこを修正していくのはとても大変なことです
それでも、私は中学生の方が専門なので、長年、休みなく中学生と勉強し続けてきて、
そういう子にはどうしたらよいのかはわかってやっているつもりです
でも、中学生になる前に軌道修正できるよう、どんぐり学舎をやっています
中学生以降、子どもが苦しむのを見たくないから
そして、親御さんに、子どものせいにしてほしくないから

小学生の間に、その壁の扉の鍵を手に入れる前に、子どもたちに体験させてほしいこと、親御さんがつけてはいけない思考癖、子どもの前でやってはいけないこと、言ってはいけないこと、気をつけることをたくさん、たくさん、例示しています
子どもにも個性がありますから、タイミングが全員同じわけではありません
でも、大事なことはなにひとつ違いません
私が知る限りのことを伝え続けているのです
中学生になってから修正しようとしても、ほとんど無理なことをわかっているから

生活科は理科になり、より科学的になります
社会は、歴史、地理、公民になり、算数は数学になります
国語力がないと英語はできません
でも、生活科や算数や国語の前に、そんなものに出会う前の5年間があります
生まれてから5年間、文字や数字を知る前に、どれだけ体と心で、世界を満喫したでしょうか
どれだけの種類の音を聞き、
どれだけの世界を見、
どれだけの言葉を耳にし、見よう見まねで発したでしょうか
自由に挑戦し、失敗し、泣き、笑い、楽しんだでしょうか

そんな心と体の経験がたっぷりあったあとで、
子どもたちが文字や数字に出会う
時間感覚をすっかり味わった後で、時計を知る
その感動を想像できますか?

私はそのことを、子どもがその感動に出会うことをわくわくしながら待っていました
だから、小学校入学までに文字や数字を教えようなんて、一度も思ったことはありませんでした
もちろん、テレビ画面やゲーム機などもっともっと後に出会えばいい、と思っていたので、わざわざ親が出会わせる必要もないと思って避けていました

子どもが、初めて牛を見たときの目
近所の犬を見たときの目
庭で蝶々に追いかけられて泣いていた時の目
海で波が動くのにおびえていた目
川の流れにはしゃいでいた時の目

どんなものを見せても、その時以上の目の輝きは見たことがありませんでした
その目の輝きを、ずっと守りたい、と思っていました

「時間」を味わう前に「時計」を知ること
それは、とても怖いことなんです

大人は自分が「知っている」から教えようとしてしまいます
でも、よく考えると、自分の知っていることの獲得過程も、単に、誰かに教えられた場合もあるでしょうけれど、自分の頭で考えて、調べて、たどり着いた知識と比較すると、その価値の重さの違いには気づくはずです

そのことが正しいか間違っているかが重要になってくるのは、中学生以降です
でも、中学生になって「正しいことだけを覚えていこう」なんていう勉強法が、途方に暮れるほど大変な作業だということはほとんどの中学生自身がわかっていることです

何事にも好奇心を持ち、向学心に溢れ、ヒントを与えてくれるなよ、と自分の頭で考えることを楽しんでいる子たちに敵うわけないことは、中学生自身がわかっているはずなのです

そういう、両方の中学生を見ていて思います
その決定的な違いはなんだ、と

なんだと思いますか?
それが、「時間」よりも「時計」が先だったかどうか、ということなんです

最先端の機器を使いこなし、流行に敏感な親御さんのお子さんは、中学生以降伸び悩む傾向が強いです
それは、まどろっこしい「時間」の体感なんかよりも最新機器で計ることや、読み取ることや、容易に楽しむことを「教えて」または「見せて」しまってきたからかと思われます

それくらい、「最先端の機器」とやらは子どもの前では取扱い注意です
同じようにそういったものに興味がある親御さんのお子さんでも、「時間」の体感が豊富な子もいます

私の知人のIT関連企業のビジネスマンも、我が子には電子端末を一切触らせない、と徹底していました
スティーブ・ジョブズはじめ、シリコンバレーの親たちの生活へのデジタル機器の取り入れ方(子どもに触れさせないよう努めていた)のは有名な話

これは、最近寄せられた、「旦那がデジタル依存で困ってます」とのご相談にお応えする形で、近日中に別の機会に書こうと思っていますので、今日のところはここまでで

最近、中学生が訳した英文に、History of Clocks というのがありました
古代から、ヒトは「時間」を読むために様々な工夫を凝らしてきた、という内容で、とても興味深い文章でした
最後の章にこういう文があります
We cannot really see time, but ancient people tried to recognize it.
(私たちは実際には時間を見ることはできないが、古代の人々はそれを認識しようとした)

「時計」がない時代の話
「文字」がなかった頃の人々の暮らしに思いを馳せても似たような感覚を覚えます

「漢字」は教えてもらわないと書けるようにならない、と思っている方も多いようです
いいえ、
私たちの生活には「時間」も「言葉」も元々あったんです
それにあとから「時計」で計れるようにしたり、「文字」で読み書きできるようにしただけ
地球に赤道は引かれていないのと同じで、
あとからついたものは、あとから知る方がいい
その感覚がとても大事だと思っています