今週と来週は、「年末恒例お楽しみ」週間で、子どもたちにささやかなプレゼントとくじ引きを用意して待っているどんぐり学舎です(年内29日(水)までで年明け4日(火)から。ときどきどんぐりさん歓迎です)

いつものようにアイスブレイクのゲームをして、いつものようにどんぐりタイムをしています

昨日は、トランプで遊んだので、そのついでにひとつ、私が手品をしてみせました
最後に見事に、子どもたちが選んだカードを当てたわけなのですが、当てたその瞬間、ある子が
「きもっ!!」
と、言ったのです

「きもっ」というのは、「気持ちが悪い」の短縮形です

手品が成功して「きもっ」と言われたのは生まれて初めてだったので、びっくりしたのですが、すぐにその子がその言葉を使った意味は想像できました
たぶん、
「カードが当たっていてびっくりした、ぞくっとした、気持ち悪いほどにすごいと思った」
ということだと思います
「すごっ!」というニュアンスが伝わってきたから、それは間違いないはず
本当に「気持ちが悪い」のではないとは思います

職業柄、子どもたちの使う言葉や書いてある言葉も気になります
正しいか間違っているかは試験前の中学生にのみ発信する情報ですが、それ以外のケースで見聞きした場合、その言葉の持つ意味、そこでその言葉が使われる意味を考える癖があります

手品が成功したのに「きもっ」と言われてびっくりした余韻の残ったまま、帰宅すると中学生の次女にそのことを質問してみました

小学生が使う言葉について中学生や高校生と話すのはとても面白いのです
彼らなりの分析が、私にとってとても勉強になるからです

「ああ、言ってる人いるかもね、『すごい』って意味で『きもい』って」
と、次女は平然と言いました
娘「たとえば100点をとった人に対して、うわ、きも!とかね」
私「それって、『気持ち悪い』っていうネガティブなニュアンスはないの?」
娘「…ない、と思う」
夫「きも!って言われて、嫌な気持ちはしないん?」
娘「しない、かな、なんとも特に思わないかも」

へえ~~~!!

少し前に、「やばい」の使い道の広がりに驚かされたのも記憶に新しいくらいなのに、
今度は「きもい」の使い道が広がってきているのかあ
大丈夫かなあ、まだまだ「気持ち悪い」って言われたんだと勘違いして傷つく子はいないんだろうか…
完全なる老婆心であれこれ私の頭の中はいっぱいでドキドキが止まりませんでした

夫「『エグい』とかもそうかなあ…」
娘「えぐみのある味、ってなんか苦そうな感じするよね」
私「元々そんな意味だったはずだよね、でも、やっぱり『すごい』って意味で使われだしてるかも」

【えぐい】①あくが強く、のどをいらいらと刺激する味がある②気が強い。また、冷酷である。
(広辞苑)

私「あとさ、強調する接頭語で『クソ』とか『バカ』とかつけるよね…」
娘「ああ!『バカ速い』とか言ってる人いる!」

なんだろう、流行なんでしょうか
本来の意味はネガティブで少し乱暴だったり下品だったりする言葉が、接頭語に使われること、強調する意味で新しい言い回しを作ることが流行っているのでしょうか
挙げてみるとキリがないくらいあるし、メディアでいろいろな性別、年代の人が自然に使っている言葉にもそういった傾向が見えてきます

私は、ただただ、職業病でそういった言葉の変遷、使い方の広がりを興味深く見てはいますが、自分ではほぼ、ナチュラルに使うことはありません
敢えて(ふざけてとか、伝え方の工夫としてとか)使うことはあっても、好んで使うことはありません
よくないから、間違っているから、とかではなく、使いたいから使う、使いたくないから使わない、というくらいの、趣味のような理由です
でも、子どもの頃から特に父親には、当時ながらのはやり言葉などを率先して家の中で使うと問われました
「それは、本当はどういう意味かわかってる?」
「本来ならどう言うべきか知っていて使ってる?」

父は、叱るでもなく、正すでもなく、ただ私に問いかけました
問いかけられた私は考えました
自分で考えるしかありませんでした
「本当はどういう意味かって…?本来ならどう言うべきか、って…?」
小さなさとちゃんは自分なりに一生懸命考えました
考えてもわからないこともあったけど、もしかしたら父は、こうして自分の使う言葉について発信する責任を持つことや、いったん考えてから発信することを教えていたのかもしれません

何度も書きますが、言葉の使い道の広がりは悪いことではありません
どの国の言語にもきっとある、当たり前の言語の進化のひとつだと思います
日本語が乱れてきている、と危惧する方もいるようですが、昔から世代ごとに使われる言葉は違っていたし、なんなら方言だって豊富なのが日本です
どの言葉が正しくて、どの言葉が間違っている、なんて簡単に判断はできません

でも、
そういう前提のもと、私はやっぱり、子どもたちの成長を見続けてきた立場として思うのです
「言葉」の大切さ、神聖さについて、無下にはできないのです

発する言葉なんて表面的なもので、中身とは関係ないでしょ、個人の自由でしょ、という意見があるのもわからないでもないけれど、それでも、私が見てきた小さな世界だけでも、手に取るようにわかる傾向というものがあります

だから、子どもが子どもである間だけは、そのことを意識して大人として一緒に過ごしてみてほしい、と思っています

【ことだま 言霊】
言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。日本は「言霊の幸ふ国(ことだまのさきはうくに)=言葉の霊妙な働きによって幸福をもたらす国=と言われている
(広辞苑)

「すごい」という言葉でさえも、どんぐり倶楽部では「使い方に注意」と言われていて、私自身も昔から「すごい」という言葉でしか表せないこともあるけれど、なんてわかりづらくてわかりやすい、突出した特に意味を持たない言葉なんだろう…と思っていました
また、「すごい」という形容詞は「すごい煙」「すごい寒さ」などと連体形で使われることもあるにはあるけれど、「すごく美しい」「すごく大きい」「すごく静かだ」などと、形容詞や形容動詞を修飾するために連用形で使われることの方が文法的には正しい使い方で…なんて職業病的な解説はさておき…
その「すごい」がさらに、「やばい」「きもい」「えぐい」と表現を変えているようです

ふざけて使う分にはおもしろい言葉遊びの一種です
手品を見て発した子も、きっと、半分冗談だったのでしょう
意味は知っていて、周囲は使っているなあ、とその変遷を楽しむのも構いません

でも、子どもたちはほとんど、深く考えないまま言葉を使っています
ただただ、友達が使っている言葉だから、家族が使っている言葉だから、と簡単に発しています
「すごい」本体はともかく、「やばい」「きもい」「えぐい」はどう考えても元々ネガティブな意味合いを持っていた言葉です
「死ぬほど○○」とかと同じように、ものすごくネガティブな言葉を使ってあえてその突出した素晴らしさを表現しようとして誰かが使い出したのには違いないのですが、これらの言葉の持つ言霊は、やはり、ネガティブで、どう受けとめても気持ちが安らいだり、ほっとしたり、幸せな気持ちになるようなものではありません
どう使い方が派生しようと、語源が語源なのですからここは変えようのない印象部分です

テレビやネットでは、ありとあらゆる言葉が垂れ流しですから、元々の使い方や、そのニュアンス、相手によって言葉を使い分ける必要性など何も考えずとも受けとめることになります
自分で考えて選ぶことができる者が見ているのか、
何も考えずただ受け売りで使い回すものが見ているのか、
発信する側はいつも気遣ってはくれません
影響力は大きくて、子どもが小さい間は困ることもあるかもしれないけど、それは、テレビの発信側の問題ではなく、スイッチを入れる側の責任のように私は思います
本物の大人なら、どんな表現でも情報でも、娯楽の一種として楽しめるのですから
(そこで留まらない大人が増えているのも現代の問題のひとつではあるかもしれませんが…またそれは別の話)

手品が成功したのを見て「キモっ!」と言うのも、
友達が100点取ったのを知って「キモっ!」「エグっ!」って言うのも、
すごく美味しいものを食べて「クソ美味い」って言うのも…、
特に深い意味はないし、相手に対するネガティブな感情などないのはわかります

でも、これは、私自身の経験でしかありませんが、そういう言葉を自然に使っている子の心はどこか、ガサガサ、トゲトゲしています
ただ流行の言葉を使いたくてふざけている、というレベルを超えて、日常遣いが当たり前の場合です
平気で人を「バカ」と言える子、
口を開けばネガティブな文句、相手に対する攻撃的なことばかり言う子も同じです

さて、どうしましょう
我が子が目の前でそんな言葉を発したら
我が子が本来持っていたはずの、純粋で素直で綺麗な心が、ネガティブな言霊にやられてしまってそんなことになっている、と気づいてしまったら

それでも、私たちは言霊で取り返すしかありません
子どもたちは生まれ持ってそうだった、なんてことはないんだ、ってことを改めて認識し、やはり、近くで生きる大人として我が身を振り返るしかありません

私は、結構教室で子どもたちに暴言を吐かれることがあります
私になら安心して言えるからわざと試すように言ってくる子もいるのです
私は怒らず、冷静に、きれいな言葉で返事をします
きれいな言葉で返されると、きたない言葉は必ず負けてしまうのです
そうして、ここにいる間だけは、その子は汚い言葉を発しなくなります
私が叱らなくても、正さなくても、次に発する言葉が変わるのです
本人は気づいていないでしょうけれど
でも、
子どもたちはよそでまた、汚い言葉を浴びて元に戻ります
それが家庭でなければいいなあ、と思うばかりです
それが学校の友達同士だけならば、それは昔から変わらないし、たいした問題じゃありません
結局、「本当はどう使うべきかわかってるかな?」と、私の父のように考えさせてくれる環境が、好き勝手に言葉を乱暴に使える環境より1つでも多ければいいのです

でも、まさか、とは思うけど、学校で先生たちの使う言葉はどうかなあ…とか、御家庭ではどんな風に言葉をかけられているのかなあ…とか、気になったことがないわけでもありません

以前、中学校のセミナーでペップトーク(相手をやる気にさせる言葉遣い)の講演を聴きました

昔学んでいた心理学ではインカンテーションIncantation(呪文)の実験を知りました
*被験者以外の全員が仕掛け人。会う人会う人全てに「体調が悪そうだね」と言葉をかけられると、本当に体調が悪くなっていく、という実験でした

お気に入りの占い番組ではときどき、「運気を上げる」という話題が出てきますが、家のどこそこを汚い状態にしておかない方がいいとか、こういう場所でこういう行いをした方がいいとか、そういう表面的なものはもちろん、言葉のチョイス、名前のチョイスひとつで運気が上下するのはあの世界では当たり前の話です

子どもたちも含め、自分たち家族の「運気」を上げるためにすぐにできること、それは、言霊を信じることなんじゃないかな、って思うのです

どうせ明日は天気が悪い、と文句を言いながらふてくされて寝るよりは
晴れたらいいね、と言って眠りにつく

どうせ結果は同じで、私たちは雨雲を動かせない
だったら、こちらの心持ち次第では?
子どもと、一緒に発する言葉次第では?

ネガティブな言葉で包まれて、
意味や使い方が変わってもネガティブ出身の言葉に囲まれて、
本当に大切な気持ちや、感動、相手に伝えたい気持ちが埋もれてしまうようなことにならないよう、
素直な気持ちを素直な言葉で、
上品とか正しいとかそういう意味ではなく、
ただただ、自分の気持ちを自分なりの言葉で表すということの大切さを、
小さい頃から尊重されている子、
周囲の大人たちに、美しくて思いやりのこもった優しい言葉をかけられて育った子は
大人になっても自分の言葉を選ぶようになっているはずで、
自分が発する言葉が相手にどのように伝わるかを想像できるように育っていくはずで
そういう人が、言霊に守られて生きていける、と私は信じています