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サブちゃんサブレ問題
サブちゃんは大好きな小鳥として描いています
右上で「あてはめ」をして検証しています
「できた!」とあてはめが当たったことで正解を見つけたようです
自由だね~

昨日は、どんぐり学舎に大人の見学者さんがいらっしゃいました
お子さんの授業体験もいつでも受け入れていますが、
教育関係者さん、これから子育てを始める保護者さん等々、ときどき大人の方からの見学希望の連絡があります

とても冷静に、穏やかに子どもの邪魔をしないよう気を遣って見学をしてくださったのですが、
授業の始まる前にまず「ちょっと一般的な小学生とイメージが違う」というようなことをおっしゃっていました
みんなごく普通の、健康的で元気で明るい小学生たちですが、そう見えるかもしれないポイントは想像がつきます
アイスブレイクのゲームタイムにはもちろん参加していただき、その後、どんぐりタイムになると水を打ったように静まりかえるコントラストも味わっていただきました
その間、私が一切子どもたちに「指示をしていない」ということを、授業のあとで指摘され、改めて「そうか、そうだったかも」と思いました

私は子どもたちが次々と入ってくる教室で自分の作業をしています
子どもたちは来た順から好きなことをしてみんなが揃うのを待っています
全員が揃うと「今日は何する?」とゲームを検討します
私が決めるクラスもありますが、この日のクラスは大抵自分たちで決めてきます
くらへ行って、わいわい相談して、ゲームを持ってくるのです
それでゲームが終わるとささっとそれぞれが自分の席に戻り、どんぐりを1問解きます
ただそれだけです
私は、一緒にゲームをしたり、見守っていたり、ゲーム紹介用の撮影をしていたり、気ままに過ごしています
どんぐりが始まると急に静かになるので、私も自分の机で問題集を解いたり、本を読んだりして添削の時間を待っています

解き終えた子から添削に持ってくるので、私はひとりひとりの作品を興味深く見て、添削しておしゃべりをしてクロッキー帳を返します
正解でも不正解でも、対応はあまり変わりません
私が興味を持っているのは、正解しているかどうかではなく、どんな絵を描いたか、どんな風に考え抜いたのか、ということだけなんです
でも、すでに挑戦した問題と、再挑戦が必要な問題が識別できるよう、再挑戦の必要がない場合は問題をクロッキー帳に糊づけ(そこまではクリップで仮止め)してどんぐり学舎の大きなスタンプを押します
再挑戦が必要な問題はお宝ケースに入れておいてね、と糊づけせずに返します
どんぐり学舎では、6年生では問題数の上限がないので、6年生になるとそれまで5~6年間のお宝問題をごっそり自宅に持ち帰って一気に仕上げてくるなどする子がいます
私の娘もそうでした
*糸山先生も講演会の質疑応答で「もう高学年ですが、手遅れでしょうか」という方に対し、「6年生から始める子は1日2問必ず解けば、1年で700問は終わります」と回答されていました*
そんなわけで、ほとんど、不正解をあからさまに嫌がったり、お宝問題が増えるのを嫌がったりする子は少ないです
もちろん、正解したいし、お宝を減らしたいし、できればない方がいい、って思っているでしょうし、内心悔しくて家で落ち込んでいたり、どんぐり学舎に来る前に今日もお宝かな…って落胆したりする子もいるし、する時期もあります
でも、そのがっかりする気持ちは「あり」だと知っていて、でも、その問題はたいした問題ではない、ときっぱりと断言できるまでに納得している大人が見守っていることで、そのネガティブ感情は「嫌い」には繋がらないのです
「どうして正解しないんだろう」「どうしてお宝が増えちゃうんだろう」「どうして…」っていうネガティブ感情を、大人が抱いている間は、子どもの進化はないかもしれない、とさえ思います
思っているだけで、言っていません、言わないよう、頑張ってます!ということもよく聞きますが、それでも、伝わってしまいます
どうして「正解させたい」のか、ご自身の中でやっぱりもう一度考えてみてほしいのです

以前、あまりにもお宝ばかりで、しかも、絵の描き方、考え方もたどたどしくてイライラしてしまう、という御家庭でどんぐりを実践している保護者さんから、「だからつい、毎回ヒントを出してしまう。なんなら、私の描いた絵をそのまま写させて、ここをこのように数えなさい、とまで具体的に解き方を教えてしまいます」と打ち明けられたことがあります
それは絶対にしてはならないことなのですが、それを「してはダメですよ」と禁止したところで、その保護者さんの感情の行き場はいずこへ…
そこが結局子どもに向かって発散される限り、手法を変えてこの保護者の方はお子さんにプレッシャーをかけ続けることでしょう
その状態では、どんなに解き方を教えても、どんなにヒントを出しても、いつまでも自力で解けるようにはなるわけがないのです
だから、必要なのはただひとつ、保護者の方が、お子さんが自由に考えることを怖がらない環境を整えること、その一番の妨害に、自分自身が今はなってしまっていることを自覚し、反省することしかありません

昨日のどんぐり学舎のひとこまを、客観的に見てその感想を伝えていただいたことで、私はますます、どんぐり問題の偉大さを知ることになりました
私は何にも指示していないんだ、命令もしていないし、全員で足並み揃えよ、とも言わないんだ
それなのに、子どもたちは自分のミッションを自分からやりはじめ、終えていく
それでまた、自由な時間にあっという間に戻っていく
しっかりとメリハリのある行動を自分で決めてとっている
なんて素晴らしい子どもたちなんだ!
私なんか何にもしていないのに!!
「普通の塾や、子どもの集まる学習施設とは全く違うと思う」というようなことも言われました

それで、思い出したのです
私は、進学塾でも同じような子どもたちに感動していたことを

その頃、私は進学塾のいち教室を任されていました
学校が終わってからさらに勉強をするために塾に来る子どもたちのことを想像して、できるだけ学校と違う雰囲気で、できるだけ私たち講師との距離感を近づけて、勉強しに行くところだけど、なんか、安心できる場所、っていう風にできないかな~と考えていろいろ工夫していました
今の年齢の半分より若かった私です

小1から中3までの生徒が通ってくる教室でした
もちろん、どんぐりとは無縁の塾ですから、塾のテキストを使って進行し、企業としての実績を上げることが何よりも社員には求められていました
企業としての塾の実績と言えば合格率でしょう
でも、私は生徒たちのお尻を叩いて勉強させる、という方法が当時からどうも腑に落ちず、肌に合わなくて、とにかく、しょっちゅう面談して生徒たちの話を聞いたり、交換日記をしたり、おやつを買ってきたりしていました
だからまあ、社員として、組織の一員としては異端児で、失格者なのでしょうけれど…(それでも結果的に私の教室の業績はトップでした)

中3に対しては、「敢えて」特別待遇をしていました
職員室のような私たち講師の部屋にはカウンターがあり、靴箱のあるホールがガラス戸越しに見え、そのガラス戸を開けて話すことも可能でした
私はそこにポットとココアやカフェオレなどのスティックドリンクと使い捨てカップを用意し、中3生のみが自由に飲んでいい、ということにしていました
ホール側からも職員室側からも使えるようポットを置きました
中3の授業はホールに面した最も大きな教室で行われていたので、授業が終わるとほとんどの子がどやどやとホールに出てきておしゃべりしたりプロレスごっこをしたりとリラックスしていました
講師の部屋に来て質問したり、教室に残って勉強を続けている子ももちろんいました
私たち講師も、顔を合わせれば生徒たちの話や、さっきまでの授業で起こったこと、気になったことなど、生徒に聞かれないように注意しながら情報交換をしていたので、職員室に戻ると次の授業の準備をしながらしゃべっていました
ガラス戸を開けて飲み物を作る子が毎休み時間ごとにいて、込み入った話は生徒たちが帰宅したあとの深夜になってしまうのですが、日付が変わってもよく話し合っていました
塾には時間割があり、科目ごとに講師が変わるし、私以外は時間講師の先生であることがほとんどでしたので、お時給の関係もあり、いつまでも休み時間をしてはいられません
私たちが次の授業に行く支度をし、テキスト等を机の上で揃え始めると、ホールで大暴れしたり、大笑いしたりしてくつろいでいた中3生たちは誰からともなくすーっと教室に入り、私たちが職員室を出る頃にはホールには誰もおらず、飲み物のカップやゴミなども全て片付いている状態でした
私としてはそれが普通だと思っていたのですが、ある時、他教室の講師が代行で授業に来てその様子に驚愕していたのでそれが普通ではないことを後で知りました
私は「静かにしなさい」とも言わないし、「教室に入りなさい」と注意することも必要ありませんでした
「自分の飲んだものは片付けなさい」と言ったこともありません
でも、誰も散らかす子はいませんでした
そんな3年生を羨ましそうに見ている2年生と1年生は、翌年にはどんな3年生になって、その特権をどう行使したのでしょうか、想像できますよね
その3年生と私は、一緒にその塾を卒業したので、その後、2年生たちがどのように成長したのか見ていません
こんなに引かれる後ろ髪ってあるのか?というほど、後ろ髪を引かれ、こんなに涙があるのか?というくらい泣いて卒業したので、とても気になっていましたが、きっと、みんな塾生活を楽しんでくれたと信じています

彼らのことを思い出し、そしてまた、どんぐり学舎の子どもたちを毎日見ていて、思うのは、子どもは、信じられていると自分で考えて行動する、ということです
私は威圧して、きちんとしないとダメですよ、と躾けに躾けて今の状態にしてきたのではありません
年齢が半分以下だった進学塾時代のあの子たちにも、厳しく怒鳴ったりなどする必要はありませんでした
ただ、みんなが快適に過ごすための工夫や、みんながリラックスして安心してミッションを遂げられる環境をお互いに思いやって作ることは私がまず率先して実践していました
講師の先生たちと情報交換を密にして大切にしていたのもその実践のひとつです
生徒それぞれに話しやすい先生はいると思うけど、先生同士が仲良しで大事な情報は共有されている、という安心感は、生徒たちにあったと思います
もちろん、内緒話は内緒話として扱います
私は若い女性講師で、他は男性講師で、それぞれの特徴が異なっているのですから

それでも、どんぐり学舎の全てのクラスが昨日のクラスのようである、とは言えません
他者への思いやりよりも自分の要求を優先する子もいます
自分以外の人と共有する空間でのマナーや礼儀など、子どもでも守れる些細で大切なことを、まるでまだわからず、勝手気ままに行動してしまう子もいます
私はそういう子には具体的に言うのです
「みんながお話を聞いているよ。聞こえなくなるようなことはしないよ」
「みんなで大切に使うものだよ。大切に使ってね」
できるだけ穏やかに、でも猫なで声じゃなく、きっぱりと、いけないことはいけない、と伝えます
何度伝えても、忘れてしまう子もいるけど、それでも、同じように伝え続けます
たいてい、子どもは成長とともに、また、自分以外の誰かの行動を見て急に自分が何をしているのか、自分が何を言っているのか客観的に気づき、ふいに改めたりし始めます
私が注意しなくても、子ども同士で注意し合っていることもありますが、
その口調は、やはり、威嚇するような、命じるような言い方ではないことが多いです

みんな優しい、ありがとう
みんないい子だ、ありがとう
私は毎日、心の中でひとりひとりにメッセージを送っています
こんないい子たちに出会えて、私は幸せで、
こんないい子たちに出会わせてくれて、保護者のみなさんに感謝

言葉にしても、しなくても、
どっちにしても子どもには伝わってしまいます
自分たちが大人に、信じられているかどうか
自分たちが本当に、自由に考えてもいいのかどうか
間違えても、遠回りしても、それもありだよ、って本当に認めてもらえる環境なのかどうか

正解を気にする、不正解だと不機嫌になる、お宝を嫌悪する、
それらの様子がほとんど見られないどんぐり学舎では、
少なくとも教室内では、私が、そんなことをひとつも気にしていない、という気持ちが、思い切り伝わっているんだと思います
(お家ではちょっと違うぞ、という塾生の御家庭では、私以外のどなたかが知らずに環境を破壊なさってはいないか、チェックしてみることをおすすめします)

だから、
子どもたちは真っ白な大きなノートに、自分の考えを描いていく
評価されず、注意されず、○や×がつくのでもない、添削の時間までのミッションを、
ひとりひとりが堂々とやってのけている
どんぐり問題には、ただそれだけで、複雑な思考回路が構築され、中学生、高校生、大人になって発揮される本物の学力=人生を楽しむ力に繋がる威力があるのです

私は子どもたちを心から信じて、子どもたちが自分の力で堂々と伸びていくところを見守りたいのです

この件に関しては、以前のブログ「そのとき、雷に打たれた」の私の未熟な失敗談からも証明ができます
その記事で少し紹介している大空小学校の梅雨の日のエピソードも全く同じ現象です
子どもは、大人に本気で信じられたときようやく自律し始める、ということの証明です

子どもを疑っていたら、きっと、子どもは伸びません、変わりません
自分が子どもより上だ、と信じ切ってしまっている場合も同様です

私たちが本気で信じ、敬い、愛することで、子どもは自律していくのです
「信じてるよ」なんて言葉ではなく、ご自身のお腹の底に本当にその思いがあるのか、
みなさん確認してみてください

御家庭でどんぐりを親子で進める場合の、
なにか、手がかりがここにあるといいな、と思います