読後の余韻から、なかなか自分の部屋から出せずにいるこの本を、
ふっと仕事の合間に開いてはぺらぺらっと見えたページを再読
目次を眺めてはまた再読
そんなことを繰り返していましたが、今日、「くら」へ移動させようと思います
だから、1回目に読んだときに折ったページから少しだけ引用させてもらって、
この本の旅支度と致します
引用したい箇所はキリがないです
全てのページです
だから、ぜひ、みなさんも手に取って読んでみてください
鳥羽先生は子どもの本質を、
そして親子の本質を鋭く、でも、自然に見抜く力と経験があり、
何より愛に溢れている
そう感じました
2章 大人の葛藤の中身
1項 子どもは簡単に自分を責めてしまう
(前略)
学校で宿題がクラス全員に同じ分量出されることは、平等なようでそうではありません。同じ量の宿題が出たところで、それが全ての子どもにフィットするわけがないのです。だからそのせいで宿題ができていない子がいたら、宿題の出し方が悪かったねとその子が自分を責めないで済む方法を考えてあげなくては、子どもは一方的に傷つくばかりです。そして、こういう経験をした子どもたちが勉強嫌いになることは目に見えています。さらに言えば、こういった理不尽さをしぶしぶ受け入れた先で子どもたちが自分の人生を手放し、自己防衛のためのこわばりだけを手に入れるとすれば、しかもそれが結果として彼らの道行を仄暗いものにするとすれば、こんなに悲しいことはないのです。
しかし、これと同じようなことが、日本のあらゆる場所で起こっています。こうやって子どもが傷ついたとき、たいてい大人には悪気はないものです。しかし、この大人の悪気のなさ、つまり鈍感こそが問題なのかもしれません。大人はなぜ簡単に子どもの心の大切な部分を損なうようなことをしてしまうのか、もう少し原理的に考えるべきではないでしょうか。でなければ、子どもは何度でも損なわれてしまいます。
今回のことでは、初めから学校の宿題が彼に合っていなかったのが問題でした。それは宿題を出した先生の配慮が足りなかったところに不備があったわけですが、もっと広く捉えて学校の宿題というシステムそのものに問題があるとも言えます。
親は自分の子どもを育てる力に自信が持てず、そのために子どもを通して自分に責任問題が降りかかることをいつも怖れています。そのせいか、何か問題が起きるたびに、うちの子どもが悪い、はたまた自分が悪いと極端に自罰的になりがちですが、そんなときに少し見方を変えることができれば、そもそもそういう問題ではなかった、初めから問題の設定自体が間違っていたと気づくことができるはずです。(中略)
子育てに正解があるという考え自体がひとつの思い込みであり、実際には、親も子も自分に与えられた環境の中で、その都度必死に対応しているに過ぎません。むしろ、いつでも解決を求めて正しく生真面目に対応しなければと思うから、状況を悪化させてしまうのです。(中略)
子育ては解決すべき何かではなく、ただ「いま」を味わうものなのでしょう。
糸山先生が「偶然教育」と呼ぶかつての子どもが育った環境は、
現在のように「荒れて」いなかったのです
大人が理不尽でも、身勝手でも、子どもが自分たちでリセットできる環境が、そんな隙が、世の中にたくさんありました
大人も溺れてしまう子どもを取り巻くマーケットの沼が、
「偶然教育」のできた環境を奪ってしまった、と私は考えます
「子育てに正解はない」けれど、最初から子どもって生き物が健康的にふつーに育つはずの環境さえ、用意されていない、今はそんな感じです
赤ん坊がスマホ画面を操作し、幼児がYouTubeを日常的に見入っています
「それも正解のひとつ」と言う人もいるでしょう
そうしなきゃ生活が成り立たない、とワンオペで必死に子育てしてる親御さんも反論するでしょう
でも、もっと先を見て、って言いたい
先を見て、今を生きて、って言いたい
3項 がんばっているのに、成績が伸びない
「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びないんです。」
これは塾に入校してくる子どもの親たちが、いかにも不満そうな顔でたびたび口にする言葉です。私はこれを聞くたびに、「ほんとうにそうだろうか?」と思わず首を傾げてしまいます。
「がんばっているのに、成績が伸びない」というのは、子どものことがわかった気になっている親の勝手な解釈であることがほとんどではないでしょうか。実際は、がんばっているからこそいまの成績が維持できているのに、ただ学校や模試において点数が伸びていないという表面的な理由に基づいて、子どもに「成績が伸びない」という烙印を押す。がんばっているのなら、現状ではそれが子どもにとってベストに近い状態かもしれないのに、その斜め上を見て「成績が伸びない」と断定してしまう。これは親の願望でしかありません。なのに、子どもたちはそのせいで自分を責めて、傷ついてしまいます。
(中略)
「頑張っているのに、成績が伸びない。」親がそう他人に主張しているとき、「うちの子はがんばっているけど、勉強のやり方がわかっていないから、成績が伸びない」という考えが前提になっています。つまり、「うちの子が勉強のやり方をわかっていないのは、それを的確に教えてくれる人がいないからだ」という他者(例えば学校や塾)に対する不満を含んでいます。
しかし、真に勉強が「わかる」という経験がある人たちは、きっとそんな考えを持つことはないでしょう。意外なことのようですが、「勉強のやり方を教えてください」と言う子どもはなかなか成績を伸ばすことができません。そして「勉強のやり方を教えてあげてください」と言う親は、自身が勉強に手ごたえを得たことがなくて、勉強がどんなものかわかっていません。わかっていないせいで、子どもにトンチンカンなことを言って足をひっぱっているのに、それに気づきません。
「勉強のやり方」というのは本来、自らの手で掴み取ることによってしか得ることができないものです。「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざは、「最終的には自分の意志でがんばらなければならない」というような単純な意味ではありません。それは、指導者にできることは、問いの解決のための具体的な方法を教示するところまでであり、実際にそれが「わかる」ようになるのは本人によってでしかないという学習の本質的な性質を示すものです。指導者として大切な素質は、第一に「本人の能力を奪わないこと」であり、それを土台にしつつ「問題解決の糸口を見つけやすくしてあげる」(これは案外難しいことだから、指導者に能力差が生じる)ことに尽きますが、「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」と主張する親たちは、たびたび「わかる」こと自体を他人に依拠しようとします。これは、水辺で馬に無理やり水を飲ませようとしていることと同じであり、うまくいかないどころか、子どもにとっては完全にマイナスにしかならない所為と言わざるを得ません。解決そのものを他人に依存することを教えることは、親が無自覚に「本人の能力を奪う」最たる例であり、私はそれを繰り返し見てきました。
「がんばっているのに、成績が伸びない」と言われ続けた子どもは、他人に自身を大きく見せがちになります。子どもを斜め上に見たいという親の虚栄心がそのまま伝染し、自分を斜め上に見せようとする、つまり、プライドだけが高い子どもになりやすいのです。(中略)
親から解決そのものを他人に依拠することを教えられた子どもの苦しみは、そうやってずっと後を引くことがあります。
「うちの子はがんばっているのに、成績が伸びない」なんて、子どもに言わないであげてください。がんばっているなら、それがいまのその子の力です。結果も含めて、すべてを認めてあげてください。
先々週、DKR保護者座談会をしました
週末の夜、素敵な空間を幸運にも貸していただけて、みんなで集まって顔を合わせて話すことができました
個別の深い話はできませんし、みんな環境や状況が違うし、通っている中学校も違うので、それぞれにとって参考になる話題ばかりではなかっただろうな…と気がかりな思いもありますが、それでも、みなさんの顔を見て話すことができてとても有意義でした
DKRで高校入試を経験した保護者さんも2名いらっしゃって、受験生時代、そして高校生になった現在の様子も話してくれました
…結論から言うと、
みんな、元どんぐりっこ(もしくは年下のお子さんが現役どんぐりっこ)の保護者さんだけあって、中学生になった我が子に「変なこと言わないようにしてる」とか「本人に任せてる」とか「ありのままを受けとめてる」と、ゆったりと構えていらっしゃる方ばかりでした
「勉強しなくて困る」とか「成績が思わしくなくて心配だ」とかいうことは言いづらい状況だったかもしれませんが、でも、「点数がとれるようになってほしい」といったような願望の話題もなく、「本人が自分の好きな高校を探してくれたら」「どうやって高校を探すんだろう」といったような話題はありました
後日、「みんなの話を聞いて、実は自分はちょっと子どもにいろいろ言ってしまっている、とわかった(から今後は気をつける)」とこっそり打ち明けてくれた方もいました
やっぱりみんなで話すことはいいね~と嬉しくなってしまった告白でした
それにしても、
どうしてそんな風に構えていられるのか、不安で仕方がない、つい口うるさく言ってしまう、そして、やっぱり点数をとってほしい、「頑張ればできるのに」って思ってしまう、言ってしまう、それから「勉強のやり方がわからないんだろう」と思ってしまう、言ってしまう日本中の親御さんたちに、その秘訣を話してほしいのです
それがもし、小学校時代のどんぐりライフの成果なのだとしたら、そのことはきっぱりと周囲に伝えてほしい
それが、どんぐり倶楽部の糸山先生への思いを表すことになるから
「なんにもしてないのに自然と~」と思っている方もいるかもしれません
でも、親の意識ひとつで、子どもが自発的に学ぶ子に育ってしまう
その逆もある(逆の方が多い)
その「親の意識」とはどこで獲得?習得?したものなのか
みんなに伝えてほしいな…と思ったのでした
「なんにもしてない」が、不自然で、努力を要する今の子育て環境です
その秘訣はなんなのか、どうやってその環境を守ったのか、みんなに伝えてほしいです
それから、座談会のあと、何人かのDKR生にインタビューしてみました
同じ課題が出ても、速攻で息切れする子もいれば、さっさと済ませて自分の力を強化する子もいる
私が目の前で話していても、心ここにあらず、って子もいる
同じことを同じ分量書いていても、数倍の時間差が生まれる
どっちかっていうと数倍の時間がかかっちゃう子にインタビューしてみたのです
「これはDONGLISHでは欠かせない作業なの。家でさらっと済ませて来る子もいるんだけど、正直どう?家で進めるのできそう?」
「はい」
…でた…絶対、はい、って言うんだよこれ(笑)
私は笑って、じーっと目を見て
「正直に言ってみ(笑)」
「……できないかも、気が進まないかもです」
「よっし」(いやいや、誘導尋問じゃないよ、最初からこの答えはわかってたし)
「じゃ、ここで一緒にやろう、なんてことないなーって状態になるまでさ。ね」
こっくり、と頷く子たち
頑張ってないわけじゃない
頑張ろうとしてる
どーでもいいや、やりたくないや、なんて投げやりになってる子はDKRにはひとりもいません
でも、どうしても動き出せない
動き出そうとしても動けない
なんでかはわからないけど勉強に対してそういう体質、っていう子がいます
中学までの教科書の勉強は、そんなに非日常の、大それたものではなく、
大人になっても雑学として知っておいて損はないような、後の教養に繋がるようなものが多く、私は全科目においてそのような興味が尽きません
だから、点数が取れるとか取れないとかじゃなく、中学生をしている間は、その教養を身につけるべく、勉強と向き合うためのきっかけを作っているつもりです
水辺に連れていった馬が、それまでの乾きを癒やし、その後の行動まで見据えてしっかりと水分補給を自分でするかどうか、そんなこと考えず、がぶ飲みしてお腹たぷたぷになっちゃうか、それとも、ぺろっと冷たい水を舐めて美味しいっ!って笑顔を向けるか、わからないけれど、それぞれに、一度は、水辺で水を自分から飲む、っていうことを味わわせたい
そこまで一緒に、って思っているだけなんです
6項 呪いでない宝はない
(前略)親の呪いにかけられて自分の将来を決めていく子どもはたくさんいます。しかし、そうやって親に操作されているように見える子どもに「親の言うことなんて聞かずに自分のやりたいことを貫きなさい」と第三者が口をはさむことは簡単ではないし、たいていうまくいきません。これは所詮他人の立場では親に遠慮して言えないという単純な問題ではなく、もっと子どもという主体の根幹に関わる問題です。
というのは、子どもが主体性を獲得するためには、多かれ少なかれ親の呪いを必要とするのです。親の価値観や美意識といったものの影響は子にとって呪いとなりますが、一方で一生の宝にもなりうるものです。呪いでない宝はなく、だから親と子の間に第三者が立ち入ってその考えに異議申し立てすることを簡単に考えてはいけません。(中略)親は子どもに、祝福と呪いとを同時に与えうる存在なのです。
でも、だからこそ親はできるだけ自分の現実にとらわれず、子どもが住まう新しい世界に目を開いてほしいと思います。自分の現実に子どもを引き寄せすぎることで、子どもが不自由な生き方を選ぶのは取り返しのつかないことですから。
「現実」は時代によってめまぐるしく変化していきます。好きなことを仕事にしたいと宣言した子どもに対して「現実は甘くない」と言い放った大人の現実も、あるときから急速に色褪せていくのです。(中略)こうして大人の「現実」は、わずか二十年、三十年の間に消えてゆきます。それが消えた後に残るのは、「現実」という言葉の裏側にあった、いかにも人間らしい葛藤の気配です。私はその気配をとてもいとおしく思います。
知らずに呪いをかけている例は、毎年目撃してしまいます
子ども本人を見ているから、呪いがかけられているな~ってのはわかるけど、
親御さんにはその自覚がありません
だって、子どもは親が好きで、信じているから自ら呪いにかかりにいっているのです
最近は高校生になってもその呪縛から逃れられない子、逃さない親が多くなっていますが、中学生の場合は一般的にはほとんどの親子がそうなんじゃないか?っていうくらいです
ある同業者は「だから中学生は見ない」ときっぱり言っていました
子どもが自立していないし、親が子離れしていないせいで、いくら塾で子どもと将来の話をしても、家に帰るとひっくりかえされ、子どもはまた自分を見失うから、と
確かにその通りです
親御さんが、子どもにそれだけの影響を与えていることを自覚さえしてくれていたら…と願い続けています
これまたDKR保護者会ではそのようなことを本当に気をつけている方ばかりでした
油断すると呪いをかけてしまう
でも、宝にもなるっていうんだから、まさに「人間らしい葛藤」です
でも実際、トップ進学校の保護者の話を聞いてみると、「ビリでもいいからここに入るように言った」とか「親戚みんなでここじゃなくちゃダメってプレッシャーがすごかった」とか子どもの意志以外にいろいろな力が働いている高校入試を感じます
そして、大学選びの段階でも、親の意志がかなり反映されている、と高校教師の友人たちから聞きます
いつまで呪いは続くのでしょうか
葛藤ならまだしも、親が(大人が)見たこともない未来を見ぬふりして、過去を引き合いに出して子どもを確信を持って呪縛している、そんな光景は見たくありません
8項 遊びと企て
(前略)しかし、遊ばせるというのはいざ考えてやろうとすると案外難しいものです。先日あるお母さんに「先生、うちの子、小学生のうちはやっぱり遊ばせておいたほうがいいですよね」と尋ねられたので、私は思わず「お母さまのおっしゃる「遊び」はすでに遊びではありませんから」と即答してしまいました。なぜなら、このときにお母さんが言った「遊び」は、「遊ばせておいたほうがこの子にとって良いことがある」という見返りを期待した「企て」になってしまっていると感じたからです。
親は子どものことを思って何かやろうとすると、いつの間にか子どものあらゆる可能性を自分の「企て」の中に回収してしまいます。だから、親と子の関係というのはなかなかやっかいです。ほんとうは親もただ一緒に楽しんで、ただ子どもと心を通わせられたらいいのでしょう。それだけで「遊び」は簡単に成立するはずなのに、心を通わせるのは楽しい一方で、なんとなくそれだけではどこか物足りない気持ちになるから、親はやってる感を得るために何か名目を見つけては、「○○しておいたほうがいい」とついつい子どもを「企て」の方に導こうとします。でもこれは、子どものことを考えてというよりは、親にとってそのほうが安心だからです。親はこうして自分の心の不安を解消するために、子どもに一方的な要求をしてしまうものです。しかもこの「企て」には中毒性があって、いったん寄りかかることを覚えると、それなしでは済まないような気持ちになってしまうから、なかなか困りものです。
親が「企て」に依存しやすい理由はもう一つあって、それは気持ちではどうにもならない物理的な問題です。地域や家族が子どもの「遊び」を見守る環境があった昔に比べ、いまは子どもを安全に遊ばせようと思ったら、その負担をすべて親が担うことになりがちです。だから、「遊び」が重要だと聞かされたところで、日々の生活に追われる親にとっては子どもと向き合う労力と時間が多く取られる「遊び」を確保することが非常に難しいのです。その意味では、子どもの「遊び」が不足する問題は家計の事情と切り離すことができません。
子どもの「遊び」にかまっていられない親が、その代理物としてすがるのが「企て」です。中でも、塾や習い事は、やってる感が得られやすいので、安心したい親としては便利なツールです。
現代の子育てする親たちにとって「遊び」が「企て」になってしまう、というのは考えても解決しない苦しい問題のひとつになってはいないでしょうか
自然豊かでないと「遊び」ができない、と思っている方もとても多いです
豊かな場所やものがないと遊べないわけではないのです
豊かな場所やものを見つけて、全ての希望をすぐに満たすことで、喜びは半減することもあるし、何より持続性が薄れます
ある御家庭では、子どもを知育玩具で満たして、遊び相手まで調達していました
でも、恐ろしく他力本願で自己中心的な子に育ってしまいました
楽しむことも人任せ、学ぶことなどもっと人任せで、自ら苦労して努力して何かを獲得することなど知らずに大きくなってしまった感じでした
「遊び」の段階で、それが全て「企て」になって後にどうにもならないほどの性質を持ってしまった例です
「遊び」を持て余し、困ってしまって、時間も潰せて、ありあまる体力も消費できて、仲間もできる習い事を探しましたね
鳥羽先生の本では、その選択の後、子どもや親の気持ちがどうなっていくのか、その先が書いてあります
私は、そういうことを外注に出す場合、親が両手放しで任せてしまうのがよくない、ということなんだと思うのです
誰に預けても、誰にその時間を任せても、責任は親にあり、親としての責務があることを、親である以上、忘れてはいけないんだと
3章 子どもと意志
5項 子どもは欲望を見つける
いま多くの子どもたちは、大人たちから意志と責任を押しつけられて、疲弊しています。彼らの意志はすっかり傷ついてしまっていて、身動きが取れなくなっています。そんな彼らに追い打ちをかけるように「なんで勉強しないの?」と言ったところで、彼らの心に何も響くわけがありません。
では、子どもの意思の能動性に期待できないとすれば、大人はいったいどうやって子どもに勉強を促すことができるでしょうか。これに関して、精神科医の斎藤環は「どうすればその人の責任問題にせずに語れるか」を考えることを提唱し、そのためには「外在化」がキーになると述べています。(「オープンダイアローグと中能動の世界」)
(中略)
これをもとに考えれば、「なんで勉強しないの?」と言うとどうしても子どもの責任問題になってしまいます。だから、このことを外在化するためには次のように言えばよいでしょう。
(肝心な箇所ですが、ここは本で読んでいただきたいので略)
子どもを「勉強しない子」として扱うと、その子はほんとうに勉強をしない子になってしまいます。なぜなら子ども自身が、自分は「勉強をしない子」なのだと思い込んでしまう。つまり「勉強しない自分」を内在化してしまうからです。だから「勉強しない子」ではなく、「いまはたまたま勉強をしていない子」として扱うことが大切です。「勉強しない子」は存在しません。勉強しないのは、彼がいま「勉強しない状態」になっているだけであり、その状態は彼そのものではなくひとつの現象に過ぎません。
これも座談会で話したと思います
中学校3年間、ついに「やる気スイッチ」がONにならなかった子もいます
水辺に連れていっても、水を飲もうとしないというわけです
私にとっては珍しい中学生ではないけれど、親御さんにとっては一大事でしょう
なんでやらないの?目の前にすべきことがあるのに、なんでそんなのんびりしてるの?
ひとりひとりの背景を探れば、いまその子がなんでその状態なのか、分析できないこともありません
でも、分析しても水に口をつけ、ごっくん、と飲む力を出すのは本人以外の誰でもありません
私たちがいくら喉をさすっても、水に顔を押しつけても、ごっくん、としてくれなきゃ無理です
あまりに子どもの勉強への姿勢に不平をおっしゃるので、上記のようなことを言葉を選んで説明したらその保護者に「それをなんとかするのがあなたの仕事でしょう」と叱責されたことがあります
確かにその通りかもしれません
だからあの手この手で努力と工夫をしています
生徒のことを考えない日はありません
それでも、私と生徒とで撒いた小さな種が小さな芽を出しているのに気づかずに、時に踏みにじってしまう親御さんもいます
ささやかな進化に、ふたりで手をとりあって喜んでいるのを、嘲笑する親御さんもいます
もっと上を目指すべき、と
想像もできないタイミングや、きっかけで、急にごっくん!ってなることがあります
それは、ずっと顔を押し続けたからではなく、喉をさすったからでもないのです
その子がその「現象」から脱した、ただそれだけのこと
本人が「ごっくん」しよう、って思った、ただそれだけのことです
だから、
「なんでやらないの?」なんて聞かないでください
4章 子どもと言葉
2項 弱いつながり
母親(父親の場合もある)ばかりが子どもを抱え込んで苦しくなっているときには、父親のノイズが十分に機能していないことが多いものです。父親が子どものことを母親に任せっきりという場合もあれば、母親と父親の相補的な関係が強すぎるためにノイズが起きる隙がないということもあります。また、夫婦間の結束を強固にするために、子どもがダシに使われることも案外多いものです。夫婦なんてもとは赤の他人ですから考え方の不一致があって当たり前なのですが、その前提が忘れられて夫婦の関係を強化することばかりに捉われすぎると、そのあおりを受けるのはきまって子どもです。意見の相違があっても、お互いに対話を重ねて最終的にはその異なり自体を認め合う夫婦の姿こそが、子どもの主体に輪郭を与え、存在を支えるものになるはずです。だから初めからノイズがないというのは考えもので、むしろノイズがあるからこそ関係性が豊かになり、それが子どもに伝わる側面があります。子どもにとっては、父親と母親という二つの存在がそれぞれに異なりつつも手を結んでいるような、二人の間にノイズがありながらもそのまま交じり合うような、そういう夫婦の関係がありさえすればいいのです。そうすれば、親がわざわざ子どものことを大切にしようなんて思わなくても、子どもは愛の実体を目の当たりにすることで、自然に愛情を与え受けとることを学びながら育ちます。
片方の親だけで子育てしている人はまた別で、
両親揃って子育てしている場合に限りますが、
子どもの目に映っている夫婦のあり方は子どもに大いに影響します
このことに関して、ずっと書きかけのブログがある、と何度も書いていますが、
そろそろ本気で仕上げようと思います
でも、鳥羽先生の書いていることがそのまま私も同じ意見です
たとえば私たち夫婦はノイズだらけでした
育った環境も違うし、考え方も違う
なにしろ、彼はサラリーマンで、私は組織から逃げ出した人間です
考え方が「一致する」なんてことの方が今でも少ないくらいです
でも、
最初から私たちは、お互いの得意分野を尊重する、という習慣を持ちました
たとえば家計、財政に関しては夫の得意分野で、夫に聞けば間違いない、と私は信じていますし、夫の指示に従うのがいちばんいい、って本気で思っています
教育は私の得意分野です
夫はどんぐりの勉強などほとんどしていないけど、
私が糸山先生を尊敬していることを知り、いつも応援してくれます
そして、糸山先生やれい先生、そしてどんぐり倶楽部のことをいつも気に掛けてくれています
自分たちの子どもに関しては、つねに会話してきました
私が一方的に意見を押しつけるのではなく、私の知る限りのことを話すけど、夫も自分の意見を言いました
そうやって、我が家のルールを決めてきたし、決めなくても、自然と我が家の雰囲気ができてきたんだと思います
夫はそのバランスを「相手への敬意」といつも言います
これに関しては、近々完成させる文章で、詳しく書こうと思います
発行 株式会社ナナロク社
著者 鳥羽和久
『おやときどきこども』