おやときどきこども」に続き、鳥羽和久先生の本をご紹介します
全部読んでいただかないと伝わらないのですが、
どうしてもこの言葉は忘れたくない、という箇所に付箋を貼っていったら案の定付箋だらけになり、いっそ、まるきり明かさずにとにかく読んでほしい、と伝えようかとも思ったのですが、でも、できるだけ絞りに絞ったので、少しだけ、また勝手に引用して紹介させてください

第1章 親の不安を知ることで、子育ては変わる
2 親の言うことを聞かない子ども
「うちの子は、本当に私の言うことを聞かないんです。」(中略)という言葉を発するとき、親は、実はそれが自分たちの固有の問題であることに気づいています。つまり、それは私たち親と子の関係性の問題であり、事実上、親の私にも責任があるということに気づいています。それにもかかわらず、親は「うちの子は、本当に私の言うことを聞かないんです。」と、まるでその責任は全て子どもにあるような言い方をします。でも実はこの時点で、すでに問題がはっきりと顔を出していることに気づく必要があります。

私と話したことがある方なら、「あ、同じこと言ってる…」と気づいたことでしょう
親御さんにもそれぞれ事情があるし、特性もあるのはわかっています
でも、私はずっと、ずっとずっと、「子どものせいにしないで」と言い続けてきました
子ども側から大人を見ていると、ほとんどの大人が子どものせいにしている、と見えるからです
自分は一所懸命やってきた、何がいけないの?どうして?こんなに頑張っているのに、親が悪いの?と泣きたくなっちゃう人もいるでしょう
でも、忘れないでほしいのは、子どもがどんな状態で、どんな成績で、どんな特徴を持っていようとも、それが我が子であるということ、かけがえのない大切な我が子で、一番の味方になり、無償の愛を注ぎ続けることができる存在であるということです
それなのに、「どうしてうちの子は」と急に問題を外に出さないでいいんです

6 放っておけない親
最近の親は構い過ぎる、子どもを放っておけない、そんな話題が昨今の育児書には必ずと言っていいほど出てきます。確かに、いまの親は放っておくのが苦手な人が多いです。そして、できるだけ子どもに構ってあげないといけないと思ってる親たちに限って、玩具やゲームなどをすぐに手渡してしまう傾向があります。そうやって、子どもに構うという行為をすぐにモノで代用しようとしてしまうのです。(中略)そうやって代用のモノを渡すというのは本末転倒ではないでしょうか。それはむしろ、親が子どもに構うことを回避しながら、構っているという実感だけを得るということになりかねません。放っておけない親というのは、そこら辺の自覚が不足しています。放っておけないと言いながら、肝心なところで楽をして、子どもを放ってしまっている自分に無自覚なのです。
最近では、私と同世代の若い親たちが、小さい子たちがぐずるとすぐにタブレットを渡すのを目にします。あれはタブレットの画面が親に代わって子守をしてくれているようなものなので、ワーワーとうるさい子どもが途端に静かになってくれるからすごく便利です。でも、何でもそうですが、手抜きをしたらそのツケは必ずどこかで払わなければなりません。子育てにおいても、それは同じことです。だから、このツケは、いつごろどんなふうにやってくるのだろう、そういうことをどこかで意識しながら手を抜くときには抜かないと、あとでツケが回ってきたときに、何でこんなことになってしまったんだろうといたずらに取り乱したり、周りに当たり散らしたりすることになりかねません。
昔の子どもたちは、与えられるモノも少なかったし、縛られる時間も今の子どもたちよりずっと短かったはずです。そうやって大人が子どもを手放す時間というのは、子どもにとっては退屈な時間なのですが、退屈だからこそ、子どもたちは好き勝手に想像力を羽ばたかせていました。

きょうだいの事情で、どうしても長時間、同じ場所でおとなしく待たせておかなければならない、という幼少期を過ごした子がいました
親が構ってあげることはできず、そのとき、他の方法を思いつかなかったのと、他の家族も同様にしていたので、その子は幼稚園時代にゲーム機を買い与えられました
数日おきにその「待ち時間」があるその子は、園児時代から1日数時間、ゲームをし続けていたようです
自ずとゲームは習慣化し、「待ち時間」以外でも没頭するようになりました
小学生になり、私のところに来た時にはまともに会話もできない状態でした
手遊びも、童歌も、絵本もほとんど知らず、ことば遊びも何をしても初体験でした
なにより、自分の知らない子と遊ぶことが苦手で、教室外で行う自然遊びの行事には一度も参加したことがありません
どんぐりを始めるにあたり、ゲーム機は処分したと言っていましたが、本当は隠していただけだということを子どもは知っていて、探し当てては隠れてゲームをし続けていました
中学生になったときには全科目においてごく基本的な問題を解くことも、ごく基本的な用語を覚えることもできず、親にも先生にも「やる気がない」といつも叱られていました
それに、まだ隠れてゲームをし続けていたので、それが見つかるとまたこっぴどく叱られる、の繰り返しでした
親御さんと話すといつも、自分がそうしてしまった幼少期のせいだ、と涙を流すのですが、実際には、子どもを責め続けていました
表面的には反省しているように見えても、自分が撒いた種であること、ツケがまわってきていることなど本当に理解することはできず、子どもがそう育ったことを張本人に対し責め続けるものかね…と残念に思いました
ツケはツケだとして、そう育ったのは育ったのだとして、どうして今の、ありのままのその子を受け入れることができないんだろう、そうでないと、この先もっともっと大変なことになるのになあ…といつもその親御さんの言い訳を聞くと胸が苦しくなりました
いくら涙を流しても、泣きたいのは子どもの方だろうなあ、と悲しくなりました

日本のいまの子どもたちに、このような異次元の能力開発を求めることは容易ではないかもしれません(ネパールで出会った少女のお話から)。タブレットの画面にはすでに画定した物語があり、自ら物語を紡ぎ出す余白がありません。また高度化したように見える子どもの玩具は、それを選ぶ大人の目線に役すばかりで、むしろ子どもの夢を奪っています。子どもの思考力を育てることを目的とした玩具は数多くありますが、はじめからお膳立てが整いすぎると、子どもが想像力を働かせる余白がないし、直感で事物を捉える機会をあらかじめ奪ってしまうことになり、かえって応用的な思考力は育たないのです。だから、タブレットや玩具を与えられすぎた子はどうしてもハンディが生じます。規定のプログラムに基づいて、その範囲内においては的確な判断と行動を繰り返すことができるけれど、何かのきっかけでプログラムが破綻すると、途端に自らの行動原理そのものを失ってしまうような、生きる想像力に乏しい人間が育つ懸念さえ、ないとは言えないでしょう。

知育玩具の話、電子機器の話は何度も、何度も書いているけれど、いずれそういうものを本当に上手に活用できるような、プログラムが破綻したときこそ本領を発揮するような人間になっているような逞しい子育てを目指すのであれば、生まれてから数年は、できるだけ素朴で、遊ばせるために用意したのではなく当たり前に家にあるようなものや、玩具や人形であればできるだけ精巧でなく、電動でもなく、素朴で単純なものだけで十分ですよ、と言い続けています

第2章 親はこうして子どもをコントロールする
5 幻想の共同体、母と娘
(塾で話して本人が決めた志望校を家で変更し違う高校に出願してしまった女子生徒)彼女はなぜたったの1日で意志を戻したのか、私はその後しばらく考えました。考えているうちに思い出したのは、彼女が涙を流したときに「母の気持ちか私の気持ちかわからない」と話したことです。私が彼女に求めたことは、お母さんの幻想から離れ、自分の意志を持ちなさい、ということでした。しかし、彼女にとっての意志が母親のそれと不可分である限り、母親から「あなたの行きたいという気持ちはどうなったの?」と問い直されれば、母親の意志を自分の意志として取り戻すことは容易だったはずです。私はこのとき、子どもの意思の脆弱さに思い当たりました。大人が子どもの意志をコントロールすることが、これほど容易く行われるという事実に愕然としました。(中略)一連の受験を通して市子さんが私に見せてくれたのは、いまにも不安で潰れてしまいそうなお母さんをなんとか守ろうと、自らの生存を賭けてお母さんの期待通りの娘を演じきろうとする、あまりに痛々しい十五歳の女の子の姿でした。

「中学生」という時期はたぶん、親と子が自然と分離していく、子どもが自律していくために必要な時期なんだと長年中学生とその親と出会ってきて思います
でも、中学生になったから急に「はい、分離」「はい、自律」とはもちろんいかず、それまでの段階が必要なのです
中学を卒業した後、高校に進学したいなら(いや、就職したいならもっと)自分のことは自分で考え、自分で努力するのは普通のことなのに、なぜか、中学生は「高校には行きたいけど勉強する気になれない」的な謎発言をします
高校行かないで遊んでいたいから仕事でもしよう、なんて仕事場に失礼ですしね

まだ誰かが自分の負担になるようなことを軽減してくれる、担ってくれる、親が助けてくれるかも、と期待している、もしくは、自分の問題を周囲のせいにして立ち向かう壁から逃げようとしています
親も親で、まだまだ子どものことに手や口を出したい、先手を打って助けたい、という心理が働きます
最近の高校生や大学生を見ていても、「まだ分離してないんだな…」という親子は昔よりかなり多くなっています
中学3年間がチャンスなんだけどな、と思います
まだ何にも自分だけではできない、経済力も生活力もない、それなのに、気持ちだけは自律したくて生意気ばかり言う、でも、そこが使える
そのきっかけとして、高校受験が使えます
ここで親が子どもに感情をぶつけたり、高校受験に対して意見しすぎたり、また成績に一喜一憂して不安定になったりしていては、子どもが自律する日は遠のくだけです
どーせ受けなきゃならないなら、親子して強くなるために活用してみよう、と私はいつも呼びかけています

7 なぜ偏差値の高い高校を目指すのか
良い大学に行けばそのあとに良い人生が待っている。そういった旧来型の考え方は、日本経済は成長し続けるという神話が崩壊した辺りからはほとんど力を持ち得ないようになり、いまや親だけでなく、その子どもである中高生や大学生でさえ、学歴に絶対的価値を認めるのは少数派です。(中略)現在の日本社会において、旧態依然の「良い学校に行きなさい」という言葉は昔ほどの力を持ち得ません。子どもに対していまだに「勉強しないと良い学校に行けないよ、そして良い職業がないよ」と言っている大人を見ると、私はどうも釈然としない気持ちになりますし、それを教育者が言っている場合には、ほとんど詐欺同然じゃないかとさえ感じることがあります。しかし、それとは裏腹に、幼児教育に始まり、小学受験、中学受験など、特に子どもの幼少期における学習熱、受験熱というのは、いまだに留まることを知りません。多様性のある豊かな人生を志向しているはずなのに、現実としてはいまだに皆が右に倣えで「良い学校」に入ろうとするのです。これにはいくつかの事由があるはずですから、それがなぜか考えていきたいと思います。(と、この先3つほどの事由を述べられています)

最近「子どもの通っている(卒業した)学校の名前は恥ずかしくて言えない」という言葉を、たてつづけに耳にしました
雑談の中であり、真剣な相談や思い詰めた言い方ではありません
言葉の弾みってやつだと思うし、本気ではないと思います
どういう学校が「恥ずかしい学校」なのか、私にはよくわかりません
私も「良い学校」出身ではないから、もしかしたら親に「恥ずかしい」思いをさせていたのかもしれません
でも、今思い出しても、私がお世話になった先生達の顔や、行事、出会った友人達全てが今の私の糧となっており、その学校自体を誰かに「恥ずかしい」と言われたり「ランクが低い」なんて言われると、先生方に失礼ではないか?私の思い出もランク付けされるのか?と、とても嫌な気持ちになります
それでも、世界中からこの「学歴意識」はなくなることはこの先もないんだろうなあ、と思います
私だって生徒や元教え子がすごく頑張って「良い学校」に入ったという知らせを聞くと「すごいっ!」って思うし、「えらいっ!」って思います
合格するのが難しい学校に挑み、結果を出したことそのものは、素晴らしいことです
誰もが知る有名な学校だからこそ、○○高校に合格したんですよ、○○大学に合格したんですよ、って言いふらしたくもなります
…言いふらしませんけど
「すごいっ!」って思うし「えらいっ!」って思うけど、その学校が一番いい!って意味ではなく、その子がその学校を目指していたのなら、合格してよかった!っていう意味です
実際、「良い学校」が全員にとって「良い学校」ではないことくらい、長年の経験からわかっています
「良い学校」の名前に負けて、背負いきれなくなって脱落した子や、卒業してもなお、その呪縛に苦しむ人も知っています
だから、世間一般的に「良い学校」とされる学校が我が子にとって「良い学校」かどうか、冷静に考えてみることをおすすめします
そしてこの本の3つの事由を読んで、ご自身に心当たりがないか確認してみることをおすすめします

10 受験直前の子どもとの付き合い方
受験直前になってピリピリしない子どもは、私もたくさん見てきましたから、それに対して不安を抱く親の気持ちは痛いほどわかるつもりです。でも、受験直前になってもピリピリしない、または勉強をあんまりしない、そういう子に対しては、残念ながらもう何を言っても難しいところがあります。いま、その子に受験直前特有の緊張感がないのは、その子のやる気のせいというよりは、これまでに培われたその子の習性(生活習慣や考え方)によるところが大きく、そういった一旦染みついてしまったものを急に変えようとしても、なかなかうまくいかないんです。だから、基本的には、この子はこういうふうに育ったのね、ふむふむ、といった具合に、その習性を見守るしかありません。(だからといって親が自分の叫びを抑えつけすぎる必要はない、と鳥羽先生は書いています)そういった怒りのエネルギー源となっている、子どもの将来を憂える不安というのは、実はいつでも現在の自分自身に対する不安に基づいているんだということです。自分自身に不安がなくて、もう少し余裕をもって考えることができれば、本当は子どもにそんなに当たらずに済むはずだ、とのことを心のどこかに携えていれば、子どもについていつでも感情的に一方的な言葉を浴びせるということにはならないし、子どもにもっと心を寄せることができるはずです。(このあととても素敵な言葉が…)

受験直前でなくても、「中学生になったのに一向に真剣に勉強しない…」と悩む中学生の親御さんは多いです
受験直前でも「この子はこういうふうに育ったのね、ふむふむ、とその習性を見守るしかない」のですから、受験直前でない場合はもっと難しいですね
それより、「その子の習性(生活習慣や考え方)」に対する対処法、対策はないのか?という点が気になりますよね
それは、「中学生では遅すぎる」というどんぐり理論につながっていきます
中学生になってから急に「自分で読む」「自分で理解しようとする」「自分で考える」習慣を急につけるのは不可能に近いです
(ときどき、奇跡のような生徒に出会いますがそのきっかけを形にするのには大変な労力がお互いに必要です)
糸山先生も、私も、進学塾講師時代に「これは………」と気づいてしまいました
点数が全くとれない子、点数は取れるけど理解していない子、点数は取れてわりと理解してるけど、勉強することが苦しくて仕方ない子、いろんな子を見てきました
こんなに全部つながっているなんて、ね
人生を楽しむ力
全部積み重なって、未来がある、あたりまえなんだけど、子どものこととなるとわからなくなってしまうのが親ですね

第3章 苦しむ子どもたちと、そのとき大人ができること
1 学力と差別の問題
低学力の子どもたちに対して、大人達は「将来困るから、がんばりなさい」とはっぱをかけるようなことを言います。しかしながら、低学力の子どもたちが抱える本人たちにとって一番深刻な問題は、将来ではなく、たったいま、学校や塾などで差別的に扱われているという問題です。彼らは将来を待たずして、すでにいま困っているのです。(中略)彼らが学校や塾で勉強ができないことに対して引け目を感じ、萎縮してるのは、大人たちがつくった、勉強ができるのは素晴らしいことという階層構造のせいであり、彼らはその犠牲者なのです。ですから、彼らに接する大人達は、その構造を突破するような力強さで彼らをその枠組みから解き放ち、その上で彼らと対話をしなければ、こわばった彼らの心はなかなか前を向くことはありません。
勉強ができずに下を向いてる子どもたちに「勉強しなさい。」と言うのは、かけっこで死力を尽くして走るビリの子に対して「もっと速く走りなさいよ!」と責め立てるのと同じひどいことなのに、なぜか勉強のこととなると、その残酷さに誰も気づかなくなるのが怖ろしいところです。勉強ができない子に対して世の中がどんな仕打ちをしているのか、その結果、子どもたちがどれだけ苦しんでいるのか、それをいつも考えずにはいられない、そんな大人が増えるだけで、きっとたくさんの子どもたちが救われるはずです。

「低学力の子」にもいろいろな子がいます
ただ単に、本当に勉強が難しいと感じていて、教科書を読もうとしても読み取れなくて、問題を解こうとしても最初から解けなくて、調べ方も、質問の仕方もわからない…と苦しんでいる子もいれば、ただただ、人に指図されるのが嫌いで、自分の好きなように好きなリズムでやりたい、自由人、みたいな性質で、結果、教科書通り、教えられた通りじゃないと得点できない中学校のテストでは結果を出せない、それがイヤになって勉強が嫌いになってできなくなっている、という子など本当にいろいろいます
ごく基本的な正負の数の計算の仕組みや、文字式、方程式などの基本を、「せめてこれだけは」と(その後が少しでも楽になるように、と)2時間かけて教えて、そのときできるようになっていい笑顔で帰宅しても、1週間後にはゼロに戻っている、なんてこともよくあります
「歴史がわかんない」というから「歴史は教科書に全部書いてある」というと、教科書を開くのですが、開いたページから必要な情報を探そうにもそれがどこに書いてあるのか見つけられない
そこで、私がまずは読み聞かせをして補足説明をして、それから口頭で質問すると、生き生きと答える
だってさっき先生が話してたじゃん、それって面白いね!…なんて天使の笑顔で…きゅん…
でも、もちろんそれがテストの点数に反映することはないのです
テストで点数を取るためには、さっと撫でるような勉強の仕方ではなく、「鍛錬」「訓練」に近いような練習を自らしないとならないのです
やらされて、イヤイヤ練習しても身につきません
いくら楽しい説明を聞いても、「ああ、楽しかった」で終わったら「点数」には結びつきません
「点数」を取れなければ、その状態でも「低学力」ということにはなってしまいます
もし、「点数」を取りたいのであれば、そのための王道はないんです
いくら周囲が「点数」を取らせたくても、本人が取りたい、と思わなければ取れるようにはなりません
水辺に馬を連れていっても水を飲ませることはできない、という例のことわざのように
でも、「点数」にこだわらなければ、もっと多様な学び方、勉強の仕方があっていいと思います
「点数」を取れないことによる、周囲からの偏見
学校から出されるテスト範囲のプリントなどを見ると「上を目指せ!」と書いてあることが多いです
全員が上を目指しても、頂上はそんなにたくさんの人を抱えきれないだろうになあ…といつも思います
頂上が全員にとって素晴らしい眺めとも言えないんじゃないかなあ、と
高所恐怖症の子だっているでしょうに、と

2 身近になった障害
たとえば、ある子が最近塞ぎ込んでいる原因のほとんどが、親と関係がこじれていることにあるのに、親はそれを「うちの子には障害があるから塞ぎ込んでいるのだ」と、いまの親子関係に目をつぶったまま、子どもと向き合うことをせずに、障害児という理由づけを得るために、病院に子どもを連れて行く場合です。そうやって、子どもに障害児という烙印を押すことで、自分の落ち度を見ずに済まそうとするわけです。
これを読んで、なんとおぞましい、そう感じる方もいるでしょう。しかしながら、人間というのは、これくらいのことは、誰だっていとも簡単にやってしまうのです。それくらい、自分自身の暗部を見るというのは怖いことだし、見ないようにするためには、愛する子どもを傷つけるのも厭わないのが人間としての親の本性です。誰だってやってしまうことだからこそ、ちゃんと見つめる必要があるのです。

最近は本当に「軽度の発達障がい」に属するかと思われる「病名」が新しくどんどん聞こえてきて、私から見ると低学年の子どもならこのくらい普通でしょ、というような子でも学校から病院へ行くよう促されたり、親御さんが必死になって調べて、なんとか当てはまる障がい名を探し当てたりしている例も多く見られます
本当に脳のどこかしらに障がいがあって、特に子どもの頃はそれを自分でコントロールすることができなくて、「普通」と違う、という状態になっている子はいます
でも、「軽度の」場合、検査の数値も極端に異常ではなかったり、投薬が必要なほどでなかったりするので、いわゆるグレーゾーンを親子で生きているわけで、いま、このグレーゾーンの子がとても増えているようです
数値には出ない、つまり、関わる大人達のさじ加減次第で、その行動は障がいのせい、と言えたりするわけです

「親子関係に目をつぶったまま」という言葉にドキンとしたのですが、これは糸山先生も「人為的学習障害」という言葉で昔から言っていて、特に大事な時期に家庭内でその子の脳の特徴に対して影響しすぎるような生活をしてしまった場合、学童期になってそれが「普通じゃない」というような行動、言動として表れてくることも多々あるのです
家庭教師時代、人づてに頼まれてあるお子さんの状態を見てほしい、といわれ、訪問すると、大邸宅の大きなリビングルームの壁に大画面のテレビが掲げてあり、その子は食い入るように画面を見つめている最中でした
子どもの身体が吸い込まれそうなほどの大きさの画面の前で、釘付けになっているその子の姿を見て、なんとなく、人間としての生気は幼いながらも失われつつあるように私には見えました
「発達障がいがあるので、同じビデオを1日中繰り返し見ています」と苦笑しながら親御さんはいいました
お茶とお茶菓子を出され、いただきながら話を聞いていると、その子はおもむろにテーブルにやってきてお菓子をわしづかみにし、椅子にも座らずにむしゃむしゃと食べ散らかしていました
まるで動物でした
「障がいがあるのででしつけが…すみません」とまた親御さんは苦笑しました
「障がいがあるので偏食もひどくて」と好きなお菓子や肉しか食べない、と言っていました

その頃、まだどんぐりに出会ってはいなかった私ですが、それでもはっきりとわかりました
この生活ではどんどんこの子のその「障がい」とやらはひどくなる一方だ、と
少しの間、家庭教師に通いました
私はその子と外を散歩し、手をつないで歌を歌いました
落ち葉を拾い、公園の木に登りました
横断歩道を手を挙げて渡り、市街地でウインドウショッピングをしました
あれは何だろう、これは何だろう、とあまり話さないその子に、私はひとり言を言い続けました
一緒にお茶とお茶菓子をいただくときは、椅子に座って「いただきます」と目を合わせ、笑顔を向け合うことにしました
数年後、
「障がいがあるので…」と親御さんが謝っていたような数々のことは、その子には過去のことになっていました
大画面のテレビにも、布がかぶせられました

本当に脳に障がいがあったのであれば、障がいについては素人の私が少しくらい一緒に過ごしたからってそんなに変わるものではないでしょう
これが人為的学習障害だ、と後に糸山先生の著書でその言葉を見て、この家庭のことを思い出しました

その子が大学生になったとき、親御さんからの手紙を受けとりました
その子が高校時代愛用していた英語の辞書に、幼い頃私と一緒に拾った落ち葉が挟んであったそうです

第4章 子どもの未来のために
2 子育てに熱中すること、子育てから逃避すること
子どもを自然に育てる。
これが親に求められている子育ての原型です。子どもというのは適切な手入れさえすれば、あとは勝手に育つものなのですから。しかし現在の少子の時代においては、どうしても、親の注意が子どもひとりに集中しすぎる傾向にあります。そのせいで、親が子どものためにと思ってやっていることが、子どもの自由を妨げることでしかないためにことごとく裏目に出てしまう、こういった過ちを現代の親は繰り返しています。でも、ひとりに意識が集中してしまうのはもう避けがたいことなので、いまの親たちは、むしろ子どもを自然に育てるということを目的的に行う必要があります。(中略)でも、子どもに対して熱心になりすぎてしまう感情と、そこから逃げたいと思う感情は表裏一体であり、どちらも自然な心の働きです。ですから、その二つの感情のどちらをも否定することなく、自分の心の自然をそのまま受けとめてください。心自体は何も間違ってはいませんから。これは子どもと自然な関係を結ぶ上で、大切な作業です。

「自然」の対義語は「人工」です
田舎の小さな地方都市で育ち、今も田舎で暮らす私にとっていわゆる一般的な言葉でいうところの「自然」はごく当たり前に身の回りにあることで、たとえば土や水、植物や小さな生物などはごく身近な存在で毎日もれなく、イヤでも向き合う対象です
そんな私が大都会に出かけると、その「人工」的な世界に目がクラクラしてしまいます
土も水も、人工的に区切られたものにきちんと収まっていて、なんなら人工的に動かされている
空気さえも…
植物もきれいに人工的に整えられ、とってもお上品でみんな揃っていて、制服を着た園児さんたちの行列を見ているみたい
かわいいけど、誰か、走り出したい子はいないのかな?
都会は遊びに行ったり、勉強しにいったりするにはとても素敵な場所で、嫌いなわけではないのですが、長居していると、どうやって呼吸したらいいのかわからなくなってくることがあります
こりゃ、都会の方には栄養ドリンクやエナジードリンクが必要になるわけだ…となんとなく体感します
田舎なら、とうとうと流れる川面を吹いてくる風を思い切り吸い込んで深呼吸したら一気に体の細胞が生き返る感覚があり、暑い日でも木々が鬱蒼とした森に入って木の幹に触れ、目を閉じていると、生命力が伝わってきてぐっと力が溜まります
それを求めて、都会の方は週末、田舎へいらっしゃっているんでしょう?
地元の人が身動きをとれないほど、田舎には、毎週末、都会のナンバーの車が押し寄せます
高速道路の渋滞情報を見るとよくわかりますね

こんな具体的な「自然」と「人工」の対比から想像できるように、子育てにおいてもそのことって、その考え方って、「自然」?「人工」?って、立ち止まって考えて、意識しないと難しい時代なんじゃないかな、って思います
意識すれば、自分が「人工」的に、「不自然」に、子どもに何をしようとしていたのかわかり、そんな自分を受け入れる努力を自分の中ですれば、それは、「自然」なこと
それが結果的には自然な親子関係に繋がっていく、そういうことだと私も思います

あとがき
子どもへの欲望は私たちを苦しめますが、私たちが心に育てた趣味は、きっと私たちを生かしてくれます。
自分に何か得るところがあっても、子どもにそれを期待しない。そして、自分の心に楽しむことがあるから、子どもだけに煩わされることがない。私たちはきっとそうやって豊かに生きていくことができます。(この後、とっても、とっても、とっても素敵な言葉が鳥羽先生から贈られます。もったいないのでここには書きません)

ぜひ、お手にとって読んでみてください
鳥影社『親子の手帖』鳥羽和久