さっき、『学校の当たり前を変えた』の工藤勇一先生が出演したネット番組の司会の千原ジュニアさんが話していたことを思い出しながら、今日も添削をしていました

「僕は学校に行っていなかったから、お笑いの道を目指したのかもしれない。恵まれた環境で学校にちゃんと行けていたら、今の自分はないかもしれない。なんか違う、っていう状態から、違う世界を目指す、っていうのがあったのかも。」というようなことを、ジュニアさんは言っていました

毎日、たくさんの子どもたちのどんぐり作品を見ていると、…特に、どんぐりを解く時に自分を出せるようになってきている子の作品を見ていると、「何を描いても自由」「どのように考えても自由」という世界観に惚れ惚れし、安心するのです

たとえばペンギンがこんな風な色だったりするわけです ↑

原則見開き1ページですが、不足したら付け足して巻き物にしてもいいわけです ↓

フンコロガシとウンコロガシの対決では「両手に2個ずつ」「両手に1個ずつ」とあるのを、昆虫だから手は6本だし、とこんな風に描いたっていいわけです ↓

※フンコロウンコロ対決の問題には別解があるので、子どもがどう描くのかを毎回しっかり見るようにしてきましたが、6本足全てに持たせていたのは初めて見ました
両手だから左右の手では?いいえ、そもそも「両手」という表現がどんぐり独特の言い回しです
だって虫なんですから
でも、虫なら「脚」では?
そこまで定義を求めたら、どんぐり問題は1問も解けなくなるかも(笑)
そこまでまるっと楽しむのがどんぐりです
ちゃんと全部の脚を描いて、全部に持たせています
楽しいなあ

「何を描いても自由」「どのように考えても自由」
という状況が、今の子どもたちにとってどんなに希少な体験か、子どもの環境をよく知らない人にはわからないかもしれません

ただ、長年子どもたちを見てきた私にとって、子どもを取り巻く「自由じゃない」状況は、今に始まったことでもありません
昔からそういう状況を危惧する専門家や子ども関係者はいたし、特に「考える」ことにおいて、学校で教わる「勉強」や学校から出される「宿題」や「テスト」や「偏差値」について、議論が終わったことはないし、いつまでも着地点も見えないし、エライ人たちもいつまでたっても子どもの本質を無視した「改革」ばかり時々起こしたりしていて呆れます

でも、そんなの何十年もずっと続いているわけで
だから、オオカミ少年じゃないけど「教育改革」なんてエライ人や国が言ってても「絶対に、よくなるわけはない」って先入観も消えません
「指導要領改訂」のことを「指導要領改悪」と呼ぶ仲間もいます
毎回、毎回、指導要領は改悪され続けてきた、と

それくらい、期待しても裏切られ続けてきたから
みなさんが自分の世代の頃の教育の記憶や、社会問題になったような「ゆとり」だの「総合学習」だの、「偏差値なし」だの、「センター試験廃止」だの、そういうのを私はずっとこの場所で定点観察してきました
教科書の円周率が「3」になったときのこともよく覚えています
あっという間に「3.14」に戻りましたが
どっちにしても、円周率ってなに?って聞いて答えられる小学生は少ないです
大事なのは「3」「3.14」のどっちか、っていう論点になっていて、
もっと大事なのは円周率ってなんなのか、って話さ、とはならないのがいわゆる普通の「勉強」なんですから(どんぐりはそうはいきませんがね)

子どもはその時その時で違う子になるから、
自分の世代がどの教育を受けたか、他の世代のことは他人事のように感じるでしょうけれど、ずっと同じ立場で何十年も見続けてきた私から見ると、子どもたちはいつも、大人が決めた制度の中でその時その時、それなりに楽しみを見つけて頑張って生きているように見えます

何が言いたいのかというと、
学校教育はそんなもの
ずっと昔からそんなものでした
もちろん、最近はめっきり少なくなってしまったけど、
子どもマニアのように子どもをよく知る素晴らしい先生もいました
管理職にたてついて、子どもを守るような先生もいました
(今は皆無に近いのでは)
以前紹介した、畑から芋を盗んで食べて叱られた教え子を「子どもが芋を盗み食いするような社会(戦後の貧しい時期)が悪い!」と全力で守った先生の話など、何度思い出しても泣けてしまいます(作家のジェームス三木さん子ども時代の先生の話です)
(ああ、今なら、盗むことは犯罪で、畑の主の気持ちにもなれ、教育上いけない、とかどんどん、どんどん批判が上がるのでしょうね。わかります、でも、論点はそこじゃない)

そう、また話がそれました
学校はそんなものです
確かに、明治から変えていない集団一斉授業形式はもう時代に合わないとか、そもそも「教える」ってどうなん、とか、ICTを活用した先進的な教育システムや、自由で伸びやかな海外の教育方法を参考に、とか、いま、教育も多様化して、新しい学校もどんどんできて、選ぼうと思えば選べる時代になりつつあります
そういう「別の選択」がもっともっと手軽になって、みんなが公教育を選ばなくなれば、さすがに公教育をどうにかしなくては、といつかなるのかもしれません

でも、なんというか、私から見える景色を言葉で表現するならば、
昔から問題ありありの学校制度が君臨している
その周辺に今、新しい選択肢がキラキラと増えてきている
数日前に開校した年間学費1000万円という全寮制の学校、
仲間と手作りしている小さな学校、
学校に行かなくても卒業資格が得られる広域通信制の学校、
うーん
まだまだ、親子で気軽に「どっちにしようかな」って選べる状況ではないし、
お金がうんとかかったり、家から徒歩では通えなかったり、親が仕事で家にいない場合難しかったり、いろいろ課題はありますが、そんな感じで選択肢は増えているのだとは思います

でも、
ジュニアさんの言葉をふと思い出すのです

恵まれなかったから生きる道を自分で見つけることができたジュニアさん
もちろん、自分1人の力ではないし、お兄さんの存在がきっかけだったりしたわけなんですけど、それでも、ジュニアさんがこもっていた自分の部屋を出て外に出よう、って思ったのと、いま、こもっている人たちの気持ちがきっとよくわかる大人になっているのも、明るくない時代を経てのこと
っていうことを思い出すのです

それで、子どもたちの作品を改めて見てみます
教科書通り、決められた通りに解くのが窮屈で、
でも、どんぐりは決まった解き方もないから自由
でもその自由って、
もしかして不自由と並行して存在するのではないかと

どんぐりを解くのに、「面倒くさい」「描きたくない」と雑になったり、投げやりになったり、「解けない」「わかんない」と機嫌を損ねたりする子の多くが、「解き方」を教わって解くのに慣れている子なのですが、その他、「我慢できない子」も多く見受けられるのです
ぐっとこらえて、自分の頭を自ら動かして考える、ということが我慢ならないのです
そんなの楽じゃないから
楽しくない、って思ってしまっているから

「我慢できない子」の多くが、
幼い頃から何でも許されてきた子です
なんでも自分の思い通りに、自由に、好きなように、気ままに過ごせた子です
わがままが許され、まるで王様か女王様のように育てられてきた子です
異年齢はもちろん、同年齢の子と遊ぶ時も自分だけが尊重され、守られすぎてきた子です

恵まれない環境で我慢して育つのがいいことだ、なんて思ってはいません
できるだけ我慢をさせた方がいい、と短絡的に伝えたいのではありません

でも、人生どこでなにがあるかわからないし、子どもたちがこの先どんな環境で生きるのか予想もできません
どの環境がその人にとって「恵まれた」「理想的な」環境なのかなんて、その人以外にはわからないし、その人だって、その中にいる間はわかりません
あとで思い返して、「ああ、恵まれていたな」と気づくこともあります
でも、幼い頃に、周囲が見えないほど恵まれ、自分中心に世界が回っているかのように勘違いし、自分の思い通りでないと我慢ができなくなるような状態に育ててしまったら、きっと、いつまでも「ああ、恵まれていたんだな」なんて気づく大人にはならないのです

学校は変わっていない(ずっと問題ありあり)
と、すると、変わったのはなんなのか
家庭です
家庭が学校をさらに変えたとも言えます

学校だけではありません
保育園や幼稚園のことも、
公園のことも、地域のことも、家庭が変えてきました

擦り傷ひとつで大騒ぎ
何かあれば他者を訴える勢いで、公園の遊具も変わり、地域行事も変わりました

経済的・文化的に成熟した国ほど、責任は自分ではなく他者にあると考える国民性になる、と文化人類学でも言われるそうですが、結局、子どもを取り巻く環境だけ見ても、親が変わり、そのせいで学校等が変わり、それで、子どもはますます窮屈になり…
その窮屈な対応について学校に話を持ちかけてみると、思った通り「家庭に問題が…」と言われ
ね、結局、誰も「自分ごと」としていない
「だって学校が悪い」「だって家庭が悪い」と、他者のせいにしてばかりで、自分の生き様を見返すことはない
そんな、他者のせいにばかりする大人を子どもはずっと、見ているんです

でも、子どもは逞しいです
管理されても、決めつけられても、こうして伸びやかにどんぐり問題に元気に立ち向かう
こんなに伸び伸び描けるのは、どんぐりそのものが持っている仕掛けのおかげでももちろんあるのですが、どんぐりを信じて、そして、日々自ら考えて、子どもを取り巻く環境を整えようと努力する親御さん、御家庭の力です

誰かのせいにせず、自分ごと、として子育てを担っている親御さんのおかげです
そんな親を見ているから、子どもがそう育っているわけです

理想的な学校を探すのもひとつ
理想的な学校を作るのもひとつ
でも私は、子どもがいくら学校で窮屈な思いをしても、理不尽な仕打ちを受けても、学校以外の場所で子どもが解放され、本当は自由で、本当は自分で考えていいんだ、ってことを伝えてあげられたら、見せてあげられていたら、それで大丈夫だと思っているんです

もちろん、子どもが毎日通う場所である学校や幼稚園や保育園には、子どもが行きたくて仕方ない、幸せでしょうがない、ってくらいの場所であってほしいし、先生達はみんな、子どもが心から好きで、憧れる素敵な人であってほしい
でも、
いま、すっかりこんがらがってほどけなくなってしまった糸が、
学校や先生達のこともがんじがらめにしていて、
親たちも気をつけないと絡まっていそうで、
そんな中、それでも、子どもたちはせめて、健全に強く賢く優しく育ってもらいたいよ…って考えると、やっぱり、いまできることを、いま必要なことを、できる範囲で探して、子どもたちに、その姿を見せること、誰かのせいにしないで、自分たちで何とかしようって姿を見せることが一番なんじゃないかなって思うんです

噂に惑わされず、
情報に翻弄されず、
人間として強く生きていくために、
子どもが自分の人生を楽しんで生き抜くために、
大人がすべきことはそれなんじゃないかな、って思うんです

子どもは、解放すると本当に自由に、賢く、優しく、逞しいです
でも、ただ自由に放っておくのではなく、
大人は生き様を見せていることが前提です
そして、解放できるということは子どもを信じているということです
子どもを信じることができるのは、
子どもが大人を信じている、と実感できるからです

親も、先生も、
自ら考えて、自ら行動する、という姿を子どもたちに、
見せてほしいです