ゴルフを習い始めました
韓国語も勉強し始めました
なんにもできない、なんにも知らない空っぽの状態からどこまでできるか試してみたかったのと、まあ、他にもよこしまな…いえ、ミーハーな理由があったりもするのですが

ゴルフのレッスンの時間は短く、先生がずっとつきっきりでみてくださるわけではありません
時々みてくださって、少しアドバイスをくださるので、それを忘れないよう、自分でひたすら練習するしかありません
親しい友人と一緒に始めましたが、練習はそれぞれの打席でひとりでするものなので、孤独です
ある日、レッスン日ではない日にひとりで練習に行くと、チェックインカウンターには誰もいなくて、カードをかざすだけ、打席周辺には誰もいない、ひたすら練習して帰るときも誰もいないカウンターでカードをかざすだけ…と、もしや、すっぴんでパジャマで来ても大丈夫なんじゃないか…っていうくらい、誰にも会わずに練習できたんです
今度、すっぴんでパジャマで行ってみようと思います(嘘です)
そんな孤独なゴルフの練習だけれど、私は、許されるなら永遠に練習していたいという状態にいま、います
一昨日のレッスンではレッスンの前からひとりで練習していたので、カードに360球ほど残っていた球をレッスンが終わる頃には全部打ってしまっていました
指には水疱ができ、買ったばかりのグローブは裂けていました
それでも、家に帰って夫にレッスンの報告をしながら、「午後また練習に行きたい」と言って止められていたくらいです
とりあえず、水疱が直らなければしばらくは打てません…やりすぎました…
練習嫌いだという夫に呆れられながら、
子どもたちの勉強についても考えました

ちょうどこの本を読みかけてもいました
そしてここ数年で確信してしまったある事実も浮かんできます

どんな事実かというと、
「学力は、子どもの性格に左右される」ということです

そんな風に思うのは間違いなのかな…と、いろんな子を見てきてずっと考えてきました
「頑張ればできるようになる」
「努力すればできるようになる」
と、(私はそういうことをほぼ言わないけど)よく言う人もいます
でも、
方法はわかっていて、
何をすればいいかもわかっていて、
時々テストなんかもされて、
自分がどれだけ習熟できているかもさすがに子ども自身もわかる仕組みがあって、
それでも、
いわゆる学力向上がない、という場合、
その原因として考えられるのは「性格」なんじゃないかと私は思うんです

そんなこと塾講師が言ってはいけないでしょ、元も子もない!って怒られそうですが、でも、たとえば、先日、どうしても漢字や英単語が覚えられない、という生徒の親御さんと話していた時のことです

あるとき、私の授業から帰宅すると、「ちょっとやってみる!」と張り切って英語の教材(私の自作教材)を出していたそうです
普段はそんなことをしないので、親御さんも喜んでそれとなく様子をみていたそうです
思えばその日、
あるひとつの英文法の説明を私が珍しく全員に講義形式でしたのです
学校ではこういう風に教わらないけど(まあ、DONGLISHってそうなのです)この英文法はこう理解しておくとずっと忘れないし、使いこなせるよ、と
その時、やけに目を輝かせていたのできっとそのまま、心を震わせた状態で帰宅したのでしょう
私もその話を聞いて嬉しくなりました
ところが、
私の解説書(音声つき)を読んで「なるほど!」と納得したところまではよかったのですが、いざ、問題を解こうとしたら、並んでいる語群の英単語がわからず、苦しんでいるように見えたそうです
なんとか頑張ろうとしていたようですが、単語の意味がわからなかったら、文法が理解できても問題を解くのは難しいし、苦しいでしょう
私は昔、糸山先生にご指導いただきながら、DONGLISHで英語を習得するために中学3年間の全ての英文法の解説書を音声つき(QRコードつきで私の解説が流れます)で作成し、その付属教材として整序問題集を作りました
整序問題集なら単語のスペルに悩むことはなく、単語が綴れなくても意味さえわかれば英文法の確認ができる、と糸山先生が教えてくださったのです
でも、
いざ並べ替えようと思っても、その語群の単語がほとんどわからなかったら…
並べ替えようにも並べ替えられません

親御さんも、私も、「なんて残念な……せっかくやる気になったのに…」と一緒に頭を抱えました
その子のやる気が、教室で私に、帰宅後親御さんに、それぞれにはっきり見えたからです
もちろん、私があらかじめ知らない単語に意味を書いておいてあげることもできますし、
聞いてくれたら説明はします
でも、全ての教材に全て、そんなことはできません
1年生の頃から、こつこつと「知ってる単語」を増やしておけば、あとになって苦しむこともないんだけどな…でも、その生徒に限らず、
そんな風に、「わからないことがあったとき」どうするのか
そこで、性格の差が出るのだ、と私は思うのです

「わからない単語があった」
さあ、どうする?

たとえばテストの後に作成するQノート(どんぐり倶楽部ではわからん帳)
ミスを貼ります、正答を書きます
そこまでの作業は誰でもできます
きちんと作成している子はいます
でも、
その先で、やはり、性格の差が出てきます

「解けなかった問題を収録した」
さあ、どうする?

私の見てきた生徒で、いわゆる学力が高い生徒たちの全てが、
「そういうことを放っておかない、放っておけない」性格でした

わからない単語が出てきた
だから勉強はおしまい
……じゃ、なくて、
自分で辞書で調べよう、聞きに行こう

解けなかった問題を収録した
正答も書いた
だからQノートはおしまい
……じゃ、なくて、
自分がなんでミスをしたのか、どう答えるべきだったのか、とことん検証する
他の選択肢のことまで調べ尽くす
それで、「これはなに?」と質問を書いたりして提出する
私が解説を書く
そのページの内容はどんどん膨らんでいきます
ただ、正答が書いてあるだけのQノートとは雲泥の差です

そりゃ、賢くなるって……
そういう、とことん自分の不得手やミスを追究する生徒を見ていると、
当たり前だよなあ…と思うんです

教室でプリントを解く
私が添削して返却する
そのあと、
じーっと眺めてからさっとしまう子
なにか書き込んで「ああ!」とか叫んでそれから辞書を引いたりしてむにゃむにゃなんか言ってる子
それだけだってそのプリントがどれだけ印象に残るか、違いは明らかです

小学生でも同じです
「ウサギ」はみんな知ってる
ウサギって漢字で書くと「兎」なんだよって話題になる
「えーー!漢字で書けるの?書いてみよう!」って私の書いたのを真似しようとする子、
「なにそれ、うざ!漢字じゃなくてよくない?」と、受けを狙っているのか、わざと斜に構えたようなことを言ってメモしてる生徒を小馬鹿にしている子
その両者の違いも、明らかです

知りたいと思わない
自ら知ろうとしない
素直に受け入れない
とことん追究しない
それに対し、
知らないことを放置できない
自ら知りたい意欲が強い
知識欲のためなら練習を厭わない
何時間でも努力が持続できる


これって、
性格の違いじゃん…って思うのです

ここでこの本から少しだけ引用します

問題を解決するためには、その問題を解くために必要な知識や外界の情報を探してこなければならない。しかし、この問題を解くのにこの知識が関係する、とわかっただけでは問題は解けない。必要な情報や知識にだけ注意を向け、目の前の問題の解決には必要でない知識や情報へ注意を向けないようにしなければならない。そのため、今、問題解決をするために必要な知識や情報だけに注意を向けることができるよう、実行機能を働かせる必要がある。
実行機能はメタ認知とも深く関わっている。必要な情報や知識に注意を向けるためには、問題解決に必要な知識を自分がもっているのかいないのかを把握できていなければならない。何かの学びが困難なときには、この3つ、つまり、学習者の持つ誤ったスキーマ(人が経験から一般化、抽象化した、無意識に働く枠組み知識のこと)実行機能、メタ認知能力が複合的に絡み合って生まれることが多い。このとき、3つそれぞれを別々に測定し、それを足し合わせたら子どものつまずきがわかるかというと、そうはいかない。学力はそれが包含する基礎的な知識や認知能力の単純な足し算で成り立つものではない。それらのすべてを状況に合わせて最適に統合させることができる学習者(子どもも成人も)が高い学力を有するのであり、学びの達人なのである。

スキーマ、実行機能、メタ認知能力
この本ではこの3つが学力のキーになっていると書かれており、
私の経験でも全くその通りだとわかるのだけれど、
だったら、そのような資質が育つにはどのような環境、どのような状況で子どもが生きるのが望ましいのか、ということを、私たちは考えなければなりません

ご想像通り、上記のようなスキルや資質は、一朝一夕でできあがるものではありません
やっぱり幼いころからの生活、習慣、思考癖みたいなものが学童期、そして、中高生になっても大きく影響しています
それが、「性格の差」と私には見える部分です
もちろん、生まれ持った気質、資質もあります
だから余計に、「性格の差」と私は感じるんです
最近では、子どもがナチュラルに育つ環境がなさすぎて、どこまでが生まれ持った気質で、どこからが人為的に作られた気質なのかがわかりづらくなっています
「うちの子、こうなんで」と親御さんが言ってくる内容のほとんどが私の見解とずれるのも、
親御さん自身が全く気づいていないご自身の気質を、ただただ、我が子に押しつけ続けてしまっていることも、
純粋に「この子はこういう子」と決めつけられない要因です

だから、
私はどんな性格の子にも、その子それぞれに合った勉強法があり、学びとの出会い方があり、一生かけてそれを「自分で」見つければいい、とずっと思っていて、ずっと、生徒たちにも伝えているんです
それを、点数をつけられたり、成績をつけられたり、評価されたり、進学した学校名でランク付けされたり、その子の人生の本筋とは違う部分でいろいろと精神的に妨害されるのはたまったもんじゃありません
まあ、そういうことを気にするのは本人よりも親御さんの方が多いので、せめてそれをやめてちょうだいよ、とずっと伝えてもいます

踏ん張りどころはその子によって違って、
気持ちの上下もその子によって違う
だから塾や教師や、なんなら親がお尻を叩いてやる気にさせればいいのに、と思うかもしれませんが、そんなことをしたらどうなるか、私はたくさんのよくない例を見てきてしまっていて、とてもじゃないけどそんな手法はとれないのです

思考力があっても、その学力がテストに反映していないなと見える時、
その子の性格が影響しているということ
もしかしたらこの本にあるような、思考を邪魔するさまざまなものが絡み合った状態なのかもしれませんし、
ただただ長く椅子に座っているのが困難な身体である可能性もありますし、
わからないことや知らないことを華麗にスルーしちゃう性格なのか、とことん追究しないと気がすまない性格なのかってのも大きいですし、だからってそれを、「とことん追究しなさい」と言い続けたところで、本人がするつもりがないのだし、そういう性格なのだから、したとしても一瞬で終わり、生涯続けるとも思えないし、むしろ、自分の意に反することを強要された負の蓄積が溜まっていくだけです

もう、お子さんが中高生になっている親御さんにはほんと、そのことを冷静に受けとめてほしいな、って思うのと、小学生以下…低学年以下だったらまだ間に合うかな、せめて、人為的な学力不振を招かないために、そして、新しいことに興味を持ち、好奇心、向学心をわき起こされ、持続させるためにどうしたらいいか、生活や、学習方法を見直せばまだチャンスはあります
ちなみに私は、生後6ヶ月までで人格形成が終わる、という理論を信じ、意識して子育てをしてきました
「三つ子の魂百まで」という諺もあるように、6ヶ月は大げさでも、まだ意識して行動していない頃に、人間の資質の多くが固まってくることは昔から言われていて今も変わっていないことです
だから、学童期に入っていない親御さんたち、赤ちゃんと暮らしている親御さんたちにも、それを知っていてほしいな、って思います
勉強を先取りしたり何かを教え込もうとするのではなく、
メタ認知能力や、好奇心、向学心に溢れた子に育つには、どうしたらいいのかを、親として知っておくといいと思うのです
だって、日常生活の中で、そういうスキルや性質は育つものだから

いつか絶対、子どもの学力に悩むんだから…やる気がないとか、勉強を嫌がるとか、成績がどうのこうのとか…そうやって、いつか子どものせいにするんだから…それは違うよ、ってずっとずっと、伝えているのに…

どんぐりは、もう、何十年も前から伝え続けているんです
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