PCのファンが大きな音を立てているのがずっと気になっていたのですが、
下手にいじってJAMBOREEのオンライン会議の時にPCが使えなくなっていたらまずい、と思い、会議後にメンテしよう、と決めていました
今朝、
周辺と外側を丁寧に掃除して、通気口を塞いでいたものも撤去して整理して、そして、ドライバーでそっと一面を外してPC内部を掃除しました
PCのことを何でも教えてくれた天才プログラマーの友人(故人)がいつかしてくれたように
上手に、壊さずにできたよ!
よくできたね!ってどこかから見て褒めてくれてるかな

それにしても、やっぱり冷却ファンの周囲にはほこりが溜まっていて、
他の部分は怖くて外したり触ったりできなかったけど、掃除機でほこりはほぼ取り除けたかな、と思ったので組み立て直し、設置
電源を入れると………
書斎に静寂が再訪しました
苦しかったんだね、動かすだけでも精一杯だったんだね
それなのに、毎日たくさんの仕事をさせてしまっていたね
穏やかに、静かに仕事をこなすPCをなでていたら、
やっぱり子どもたちの育ちのことを考えてしまうのでした

今日はこの本から、
「どんぐりならとっくにやってる」と数行読み進めるごと声に出してしまうほどだったページから引用します

箇条書きにします

●問題を解くために前提となる数についてのスキーマが誤っている、あるいは欠落している
●たとえば、小数や分数の概念がそもそも理解できていないことなどが顕著に見られた。小数を理解するためには、整数、分数、小数のそれぞれの関係性が理解されていなければならないのだが、それがまったく欠落している
●単位変換が苦手なことにも表れている
●時間の単位などについても、秒・分・時間・日などの概念がつながっておらず、バラバラに覚えているだけで、「システム化された知識」になっていないのである。また、数の概念の脆弱性は、繰り上がり、繰り下がりの概念のぐらつきにもつながっている
●文章の読み取りができず、文章で描かれている状況のイメージが作れない。これは多くの子どもに見られた。
●なんといっても「読解ができない」ことの最大の原因は、推論能力が足りないことである
●算数文章題の誤答では、文章に書かれていない数字を推論によって自分で考え出すことが困難であることが顕著に見られた。画用紙のあまりを考慮して、商より1枚多くの画用紙が必要だと考えたり、「30%増量」という言葉から、元の量にかけなくてはならない数は0.3ではなく1.3だと考えたりするような推論ができない子どもたちが多い
●読解力にしても、算数の問題解決にしても、「推論の力」はカギになる。文章題を解くことの困難は、文章に書かれていないことを自分のスキーマで補って推論する力が足りないためである可能性が非常に高い
●繰り上がりや繰り下がりを回避して計算問題を解こうとするために文章中の数字を変えてしまったり、順番を入れ替えたり、本来かけ算を使うべきとわかっていながら割り算にしてしまったり、計算のしやすさを優先して、文章の意味を無視したり、5時間10分-2時間50分で、10分-50分ができなくなるため、(5時間-2時間)+(50分-10分)と分の部分だけ順序を変えてしまったりする態度にそれは顕著に表れている。子どもたちにとって算数の文章題は、とにかく答えを出せばそれでよいというものになってしまっているようである
●足し算、引き算、かけ算、割り算の計算のしかたは知っていても、その意味が理解できていない。それぞれの単元で、計算のしかたに主軸が置かれ、その意味を問うことが十分になされていないことが原因だと思われる。そもそも、それぞれの演算の意味を理解するためには、演算の間の関係性を理解することが欠かせない。子どもが「てきとう」に文章中の数を使って思いつく演算を適用してしまうのは、演算間の関係性が理解できていないことに起因する可能性が非常に高い
●概念理解が脆弱だと、簡単な計算のときには答えることができても、文章題になって実行機能や作業記憶の負荷が高くなると、誤ったスキーマが顔を出すのである。時間の計算で、「2時間50分は何分?」という単純な問いだと60進法を適用して正解できるのに、文章題に組み込まれ、文章中の他の情報にも目配りしなければならないと、2時間50分が250分になってしまうということが子どもの解答に頻繁に見られた
●ちょっと見直して自分の解答をチェックすれば正答できる知識はもっているのに、答えを振り返って見直すことをせず、とりあえず答えが出たらそれを書き、そこで終わってしまう。これはメタ認知、批判的思考の問題であるが、その背後には、算数の文章題に対する子どもたちの認識の問題も大きい
●テストの特典に一喜一憂しても、問題が解ける喜びを持っていない。だから答えがヘンではないか、ほんとうにこれでよいのか、チェックすることをしないのである


実際、あるとき、どんぐりを始めたばかりの高学年の子が、2時間30分を230分として書いていました
「1時間は何分だっけ?」と聞くと「60分」と即答するのです
それでも、2時間30分は230分として問題を解いていました

「そのくらいのこと、いつか誰でも間違えずにわかるようになるよ」という程度のことに思えますが、こういうミスの仕方の裏側にあるものは、この本で上記のように書いてあることがあるわけですが、私がいつも感じるのは「心を動かしていないんだな」ということです

糸山先生が、
先日のJAMBOREEオンライン会議に向けて、動画メッセージを作って送ってくれました
保護者さんたちに一緒に視聴してもらいました
先生は動画の中で、「考えるためには遊びが必要。でも、その遊びは、主体的でないといけない」というようなことをおっしゃっていました
自分の気持ちで動くこと、遊ぶことが大事、それが考える力に繋がっていく、と

「そんなの当たり前でしょ、遊びなんか自分が遊びたいからで、主体的に決まってるじゃん」と思うかもしれませんが、実は最近の子どもたちの遊びは一概にそうともいえないものがほとんどだったりします
一見、主体的に見えても、実はそうではない
デジタルゲームや動画視聴などは最たるものですが、そういうものでなくても、自分で考えて、頭を使って心を揺さぶって遊んでいる子どもがどれだけいるか、というと、そんなに多くはないんじゃないかと思われます
それは、社会が環境を奪ってしまったから、社会が利便性と効率を追求してきたために子どもにとって大切な余白がなくなってしまったから、というのも大きいけれど、それでも、恵まれない環境でも自発的に遊びを創造するのが本来の子どもです
社会のせいにして、子どもの身近にいる大人たちが、本気で環境を守ろうとしなかったせいではないかと私は思っているんです
だって、実際、そういう心身が守られている子どもたちは私の近くには結構いるのです
でも、一緒に山や川、遊具のない広場などに遊びに行っても「なにして遊べばいいの?」と聞いてくる子は必ずいます
スタッフの大人のそばを離れず、「遊んでもらう」ことが普通だと思っている子もいます
遊び方が決まっていれば、楽しそうに遊ぶんです
遊び方を指示されれば、その遊びでしばらく楽しめるんです
でも、それは、糸山先生のおっしゃる「自発的な遊び」ではないはずです

遊びでさえも、「心を揺さぶってないなあ…」と見えるのに、学びの部分でそうできるとは思えないんです
学ぶことも子どもにとっては遊びとの境界線など初めはありません
遊びの延長で、わくわくが続いた状態で、好奇心と向学心で、学びへとつながっていきます

しっかり勉強させるために、自由に自発的に遊ばせなきゃ!と気づく方は少ないかもしれませんが、気づいても、なかなか、どうやったらそんな風に子どもを遊ばせられるのかわからない、って方も多いようです
だから糸山先生はどんぐり倶楽部をつくり(最初は遊びのサークルでした)、私もDSS(どんぐり・しぜん・すくーる)を作ったんです

しかも、
なにも、自然の中へ連れて行くことばかりが有益なのではないのです
もちろんかなり有益ではありますが、家庭内でも、いくらでも環境は見直せるんです

でもそれにはまず、
「あたりまえ」だと思い込んでいるいろいろなことを見直すことが重要なんです

学校では、
「あわせて」があったら足し算、「ちがいは」があったら引き算、などと教わってくることがあります
割合の問題は教科書の導入を見ても、最初から線分図が描いてあり、とてもじゃないけど自由に割合の概念を体得するには有害すぎる内容です
だからほとんどの子が割合の単元で混乱するのです
%がわからない大学生…と話題になったこともあり、本も出ていますが、「く・も・わ」で計算方法はわかってテストはできても、そもそもの概念がなにもはいっていない
単純な計算で済むことなら得意の公式で答えは出ても、理屈になるとからっきし意味がわからない
それは、獲得する順序が逆だから起こることなのでしょう
だから、教科書が「有害」になる原因は、そもそも教科書に出会う前の準備学習、体験、経験が乏しいからだ、とも言えるのです

どんぐりでは2MXまでで、小学校6年間で学ぶべき算数の内容が網羅されていると言われています
割合ももちろん、そこまでに含まれています
さらに、4MX00という問題(4年生グレード)では一見、分数同士のかけ算に見える計算問題と、分母の違う分数の足し算の計算問題が出てきます
4年生は通分も分数のかけ算も未習です
でも、どんぐりっこの多くは「習ってない」などと言わず、絵を描いて解いてしまいます

%の問題を、学校で出題されると、公式を使わず解けてしまうので、
長女が6年生のとき、テストで0点を取ってきたことがあります

これは別のプリントで、何度も紹介しているものですが…
私は娘のこの解き方が好きで、時々見返しては笑ってしまうのです
たとえば③などは、
100÷25=4
21×4=84
で答えは84%と正解しています
学校の公式なら、
21÷25×100=84
と求めるべきところです
でも、
娘はこの問題文を読んで、質問されているのは21問が何%か、ということだから、1問あたり何%なんだろう、と思ったようで、まず、100%で25問なんだから、100%を25で割れば1問当たりの%は求められて、それを、21問分に換算すればいいんだ、と思って解いたようでした
それで、計算したら1問あたり4%だ、と気づきました
だったら21問は84%だな、と

0点だったテストも同様の解き方で、質問されている内容によって、式を自分で考えて全て全うに答えは出せていたのですが、公式を使っていないので全部×にされていました
先生に一応聞いてみたら、「教えた通りのやり方をしていないから」と言われたそうです

次女が小学校2年生のときの長さを測るテストの話も何度か紹介していると思います
テストの中で、実測で直線の長さを「2cm」と答える問題で、定規を当てると2cm5mmだったけれど、解答欄に「cm」と印刷されていたので、どうしよう…と考えた末、「2.5cm」と書いて不正解だった、という話です
私たちが家で測っても確かに2.5cmでした
念のため、先生に聞いてみると、正解は「2cm」で、プリントする縮尺を少し間違えたせいで図に誤差が出た、ということでした
それはともかく、正確には2.5cmで、娘はそう書いたのにそれは×なのですか?と聞くと、「小数はまだ習っていないので…」と言っていました
おそらく、習っていない小数で答えることができない子は何の疑いもなく「2cm」と書いて正解していたでしょうし、本当は2㎝5㎜だけど書くところがそうなっていないから2㎝でいいや、って書いた子も正解していたでしょう

でも、それでいいの?って私は思ったのです
不正解が悔しいとか、点数が下がって悔しいとか、そういう気持ちは一切ありませんでした
小学校のテストは算数の全てと国語の漢字は切り貼りしてわからん帳を作ります
100点のテストはそのままゴミ箱行きなので、間違えたテストの方が学びがあるのです
でも、
これは「間違い」なのか?

幸い、娘達はどんぐりをやっていて、生活の中でも意識していましたから、学校で公式や立式の方法を習う前に体感として数量感覚が備わっていました
だから、「学校ではこう教わったよ。なるほど、そういう考え方もできるんだね」と冷静に受けとめていて、「学校で教わることが全て」だとは思わない性質を持っていました
学校で先生が教えてくださることも教科書に書いてあることも大切な学びのひとつ、と私も話していました
でも、時々こうしたことが起こりました
その都度、私は娘達とよく話してきました
そんなことで感覚を麻痺させたり、苦手意識やごまかしの解き方を覚えてほしくない、と本気で案じたからです
だから、娘達の数量感覚は守られ、数学的思考も論理的思考もしっかり育ちました
娘達は小学校の間も、中学も、高校でも、算数・数学で躓くことはありませんでした

どんぐりでは、考えないで解くことができないんです
なんとなく式を立てて答えさえ出ればいい、ってことができないんです
時々、コンディションが悪くて、そんな風な解き方に逃げることがある子もいないことはないけど、そうなると絶対に答えが出ないのもどんぐりなので、どうやったってごまかしはきかないのです

文章の読み取りができず、文章で描かれている状況のイメージが作れない

と、この本にはありますが、
どんぐりはそもそも、文章で描かれている状況のイメージをするのが基本の解き方で、それを避けることは絶対にできないのです

自発的な遊びと自発的な学びは直結しています
テストでいい点数が取れていても、
遊具も道具もない広場や、何にもない山や川や海で「どうやって遊べばいいの?」と聞いてくる子は、要注意かもしれません
いつも親のそばにいて、言葉が要らない関係ばかりで遊ぶのも進化しない要因です
言葉を掛け合わないと交流できない他人との関わりの中で、
自分の気持ちを言葉で表現する、
他人の気持ちを言葉で受けとめて理解する、という経験ができます
家族とだけではできません
家族では、特に、親では、言わなくてもわかってしまうことがあるのですから

子どもたちが、学校の授業や宿題で帳尻を合わせるため、
自由な思考を抑え、そのうち、それを使うことができなくなっている、という事実
この本ではその例が手に取るようにわかります
この本では誤答する子が例に挙げられていますが、私は、いつも100点を取ってくる子にも注意が必要だと考えています
それは中学生までを教えていて気づくことがあるからです

学ぶことはもっと不思議でいい
すっぱり答えなんか出なくていい
いろんなアプローチがあっていい
つまらないことで学ぶ意欲が削がれ、好奇心も向学心も湧き起こらない子になってしまう前に、
気づいて、救ってあげてほしいのです