この言葉については、
10代の頃、心理学を学んでいたときにかなり気になっていて、
そして、
30代前半の頃、子育て支援のNPOで働いていた時にもよく思い出していました
それは学習性無力感という言葉、現象です

引用します

もうひとつ気になるのは無回答である。無回答は、どの学年でも下位層の子どもにのみ見られるパターンで、上位、中位層にはほとんど見られない。しかも、無回答の割合は、5年生の下位層に突出して多い。これはとても心配な傾向である。文章題を解くのは自分には無理、と思い、取り組まずに無回答のまま提出してしまう子どもが増えているのではないかと思われる。これは心理学では「学習性無力感」といわれるもので、自分ではどうしようもない状況に長年置かれることで、「自分はいくら努力してもこの状況を脱出できない」と思ってしまう状況を表す。学習に関していえば、学習者が、授業を聞いても理解できない、テストでは間違い続け、低い成績しかとれない、そういう状況を繰り返すことで、自分には勉強しても無理、と思ってしまう状況である。下位層の5年生がこの状況に陥っている可能性が見てとれる。これは絶対見過ごせない。

小学校1年生から積み重ねられた、
いいえ、もっと前から他者と比較され、評価されてきた子どもたちもいて、
彼らが獲得してしまったこの「学習性無力感」というのは実に厄介で、
それを払拭するのは容易ではありません
実際、払拭できた子はいたかな…と思い出すと、私の30年の経験でもひとりひとり鮮明に思い出せるほどレアなケースです

あるとき、
1桁の計算もイメージできず、絵には描くんだけれども、それがいつまでたっても「ぱっと思い浮かぶ」状態に自然にならなかった生徒がいました
計算カードで計算と答えを暗記させるのはナンセンスですが、2と3を合わせたら5になる、というくらいの計算なら、いちいち絵に描いてみなくても5だな、とすぐにわかるように大抵なってくるものです
でも、その子は、いつまでたっても指を使って一生懸命数えていました
しかも、指を机の下に隠すので、
隠さなくていいよ、指は便利だよ、と、まずは数量感覚の体感を意識して、いろいろなものを数えたり、測ったりして遊びました

それでも、ここで過ごすのはほんの1時間
ほとんどの生活は家庭生活です
その御家庭では、子どもの「できない」を大いに気にしており、
できるまで練習させたり、算数の教室に入塾させたり、力尽くで泣くまで宿題をやらせたりして、その子は、私に出会う前に、相当なダメージを受けた状態でした
指折り数えるのももちろん禁止されていたんだと思います
どんぐりでは絵に描くし、指だって使えるので、自分が数えたいように数えればいいんですけど、それらを心から「自由につかっていいんだ」という風には、最後までならなかった子でした

全てに模範的な解法があり、それを覚えなければならない、とどんな単元を学んでいても思い込んでいて、まずは自分で工夫してみる、という部分が激しく欠落しているように見えました

その子はよく学校のテストを白紙で出していました
高学年になってからです
そして中学生になりました
結論から言うと、3年間、その子は、正負の数の計算ができないままでした
正負の数の計算は、たとえ一桁の加法だとしても、指ではできません
指ではできないので、色違いのおはじきなどを用意して、プラスとマイナスで数を比べて答えを探す遊びなどもよくしていました
遊んだ後で、計算問題を解くと、頭にイメージが湧くんだ!と喜んで解いていましたし、正解もできていました
減法も、まずは式を加法にレンチンする(と私は教えるんですけど)ことに慣れれば解けるようになりました
乗法と除法はお手上げでした
小学校の計算もままならなかったので、そこに正負が絡んでくればイメージもなにも、そんな余裕はありませんでした

だから、
中学のテストも白紙で出すしかなくなっていたんだと思います

小さい頃からゲーム感覚、遊び感覚で「わからない」ということを教えてきたので、何かわからないことがあると私にゲーム感覚で教えるようせがみました
その都度、工夫をし、私といるときには目を輝かせて、「わかったよ!できるできる!」と喜んで帰っていくのですが、家に帰ればできません
もちろん学校でも
いくら私といるときに閃いても、結局、自分の頭を揺さぶってはいないので、自力では何もできなかったんだと思います
自分1人で、おはじきを出して考えてみよう、などと一度もしなかったと思います
だからすっかり忘れてしまう…
でも、
私といるときに「理解できた」という記憶だけはあるので、
それを思い出せば思い出すほど、勉強に対するつらさ、もどかしさのようなものが募っていくように見えました
私は、毎度すっかり忘れてしまっていても、「忘れちゃったの?」「前にも教えたでしょう?」などと言わず、あたかも初めてのように教えていたのですが、いつからか、本人が気づいてしまったんだと思います

どうせ教えてもらっても忘れちゃうんだ…
いつからか、そんな風に思っているのが伝わってきました
思春期も重なり、自分の気持ちのコントロールも難しい時期にさしかかっていました

生まれつき、数量感覚がつかみづらい脳の構造をしているのかもしれません
生まれつき、なんらかの障害物を頭に抱えているのかもしれません
そのことを、勇気を出して親御さんに伝えてみたこともありましたが、
「そんなはずはない。うちの子は普通の子です」というような言葉がいつも返ってきました

専門家ではないので、原因はわかりません
でも、その子が育った環境で私がよく知っていることといえば、
親御さんが先に手出し口出しをし、よいと思う教育法にはお金はいくらでもかける、ということでした
よいと言われる知育玩具や、
よいと言われる通信教育や講座や、
よいと言われる家庭教師や塾を、
親御さんが見つけてきてどんどん買い与えていました
どんぐりに出会う前の、生後7年間くらいの期間だけです

偶然にも私を見つけてどんぐりを始めた時、
全てをリセットしたはずでした
でも、
そもそもの親御さんの考え方まで変わったわけではなかったんだと思います
幼少期から既にそのように育っていたその子が、
私のところに週に1日来たくらいで簡単に変わることはありません

親御さんも不安だったんだと思います
よい教育って、お金をかけることじゃないの?
よい教育って、最良の教材と最高の教師をあてがうことじゃないの?
よい教育って…

不安で、我が子が可愛くて、大切で、あれもこれも、と与えてきた結果、
その子は、自分の頭では何も考えられず、しかも、なんとなく、周囲に対して謎の優越感を持つ子に成長しました
お金をかけられて教育されてきた子に多い特徴かもしれません

学習性無力感
この言葉を聞くと、その子のことを思い出します
人為的なのか、先天性なのかは最後までわかりませんでした

学習に遅れが出てから気づいても、遅い
この本ではこれがかなりの大問題と書かれていますが、
これが発覚してからどうにかしようと思ってもほぼ軌道修正ができないのが現場の体感です
なぜって、それは、先天性のものでない限り、
家庭でそう育ってしまった可能性があるから
学校や塾でそうなってしまったのではなく、
家庭で、生活のあれこれまで指示され、自分で考えるより親に操作されるかのように毎日を過ごしている子が、とても多いからです

どうせやっても無理

それが、

めんどくさい
わかんない

に繋がっていきます

だって、自分で考えて、自分で工夫することの喜びを知らないのですから
指示されたことをしていれば楽なのですから
でも、いざ、勉強に向き合ったとき、
生活や遊びの中で自分の頭と心を動かし工夫して楽しんできた子どもと、
言われた通り、なんなら模範的に過ごしてきた子どもとでは、
底力に大きな差がでてしまうのです

そして、
なんのために勉強するのか?とか言い出してしまうのです

勉強に遅れてから気づいても遅い

「うちの子、計算はできるけど、文章題ができないんです。」という高学年児の親御さんからの相談は、30年前からずっと、多いです
特に、5年生からが増えます

でも実はその前からずっと、そうなる予兆は出ていて、そうならないための方法もわかっています

そのことに親御さんが気づけたら、
守れるんだけどな、って思っています