1回目は子どもたちの遊び場について書きました
ネットやゲームばかりする子どもを責めても解決にはならないという主旨です

2回目は電子画面の子どもの発達への影響が世界中で気づかれ、検証されているにもかかわらず日本は本気で検討しないどころか子どもたち「全員に配布」してしまったという事実について書きました
国が規制しない、学校もひとりひとりについて真剣に対応してはくれない(そんな暇はなさそう)だから、家庭で真剣に考え、行動に移すしかないんです、と書きました

3回目の最後に、清川先生が会場の教育者、保育者に呼びかけ、提案していたことを、各家庭はどのように受けとめたらいいのか、どのように協力したらいいのかについて、私の考えを書きます

清川先生は、ヒラリー・クリントンさんが本のタイトルにもしたという以下のアフリカのことわざを紹介してくださいました

『子ども1人が育つには村じゅうの人が必要』

気になって帰宅して調べると、英語ではこのような言葉でした
It takes a village to raise a child.

有名な言葉で、世界中で引用され、紹介されているそうです
そして、多くの著名人が「本当にその通りだ」と自分のことを振り返って書いている文献もありました

親だけでなく、むしろできれば親以外の子どもの周囲のさまざまな人との豊かな関わりがあればあるほど、子どもは育っていくものだ、と

以前、プレイパークの勉強会に行ったとき、やはりそんな話題になりました
昔は雷おやじ的な怖いおじさんやおばさんが近所にいて、
ヒヤヒヤしつつも面白かったとか、
親がいないとき近所の人が助けてくれたとか、
子ども時代の他人との関わりを、みんな意外とよく覚えていました

私の場合、家を建てた場所は自分たちが子どものころから関わってきた土地ではないので、新参者として新生活をスタートさせました
同じ苗字が多かったり、子どもの頃からこの町に住んでるんだよ、なんていう人も多くて、習慣がわからなくて戸惑うことも当初はありました
でも、子どもが小さいうちはできるだけ外に出て、町の人と関わりを持とうとしたのと、小学生になれば地域の運動会や伝統行事などに誘われるので積極的に参加し、役員などもできるだけ引き受けてやってきたので、町のことや町の人のことをどんどん知ることができ、子どもが成長した今も、かなり住みやすく、近所の人とも心地よい関係が続いています
特に仲がよく、交流を活発にしている、というわけではありません
ただ知り合いがちゃんといて、どこに誰が住んでいるのか、結構知っている、という程度ですが(何せ、子育て世代が多かった訳ではないので、世代が違うのです)

この秋、コロナ禍後、久々の地区運動会が短縮開催で開かれました
私たちがこの町に深く馴染めるようになったきっかけが運動会(と、そのあとの慰労会)だったのですが、再開されると聞いて喜んで駆けつけました
町ごとに揃いのTシャツやはちまきがあって、待機場所に公民館から座布団を持ってきてテントを建てるんです
各町で闘志をぶつけあい、本気で綱引きや玉入れをして盛り上がったりします
最後には総合点でどの町かが優勝旗を持ち帰ります
短縮開催でないときは、みんなでお弁当を注文して食べて、午後まで楽しみました
優勝旗やトロフィーを飾って、公民館で慰労会(飲み会)をしたこともあります
子どもたちは主人公ではないのであまり多くの競技はないのですが、私の子どもに聞いたところ、大人が本気で楽しんでるのがいいんだ、と言っていました

「いいなあ、こういう町に住みたい」と娘がぽろっとこぼすのを聞き、
「こういう町」ってどんな町かな…ってひとり考えました

コロナ前、我が家の子どもたちと年齢の近い、一緒に子育てした世代や、もっと若い世代も、一緒に楽しんでいました
もちろん、それでも全員ではないのですが、参加者集めは育成会役員の仕事のひとつだったりしたので、役員を経験した人はその大変さも知っているから、自分が役員じゃなくても協力しようとする人が多く、年々、賑やかに開催できていました
子育て世代ではない大人の方も、ただ見学するだけ、みたいな気分で集まってくるので、自然と知り合いがどんどん増えました
子どもが中学生や高校生になると、そもそも子どもが「もう行きたくない」と言い出すことも多いでしょうし、親たちも、子どもが出ないのに行ってもしょうがない、と思う人も多いです
自分が役員の時は仕方なく参加するけど、それ以外の年は参加する必要がない、と判断する人も多いです
それが普通といったら普通かもしれません

昔は娯楽が少なく、地域行事で思い切り楽しむ大人が多かったのでしょうけれど、しょせん、現代なんてそんなものなんだろう、と理解はできます

でも、そこを敢えて無視して、私と夫は参加し続けてきました
その姿を子どもに見せてきました

誰が本気で「綱引きがしたいなあ!」と思います?
そろそろ綱引きしたいなあ、綱引きしにいこうよ、なんて思う人はほぼいないと思います
家にいればのんびりできる休日に、わざわざ砂まみれ、汗まみれになりに出かけようなんて思わない人が多いのもわかります

でも、私たちは綱引きがしたいわけでも、他にすることがなくて暇なわけでもなく、ただただ、人と人とが関わる場面を、自分たちが暮らしている町で人が集まってひとまずワイワイやる場面を、子どもと味わいたかった、中高生になり、一緒に参加しなくなっても、私たちが参加することを子どもは見たり聞いたりするわけで、そんななんてことない、珍しい1日(たった1日…)を、過ごすのも悪くない、って思ったから、参加しているんです
ちなみに、たまたま休みになった高校生の娘は一緒に運動会に行きました
私たちの町の中学生も高校生も、娘以外ひとりもいませんでしたし、出られる競技もありませんでしたが、初対面の小学生達と一緒に応援団になってくれて、彼らとずっと手をつないだり、おんぶしたりして過ごしていました
そのあと、帰宅して、つぶやいたのが上のひとことでした…
何にも自分は楽しんでいないのに
※ちなみに、別の町にはどんぐり仲間が家族全員でやっぱり来ていました!
やっぱり!って思って嬉しくなりました
娘もきっと嬉しかったはずです
私たちは、娘に「こういう町」を見せてきたんです

なんてことないんです
毎日の生活を大きく変えるような大それたことではないんです
それでも、
たった1日のことでも、最近、そういうことを億劫がる人がとても増えていて、
なんなら「そんな行事要ります?」「そんな組織要ります?」と、そもそも論に立ち返っちゃったりしてます
様々な場所で役員や行事を担ってきて感じるのは、何にもやってない人ほどそういうそもそも論を言い出す~という事実だったりします…
やってみたらたいしたことないのにね

さっきも書いたように、そんなもの、要らないんですよ
要るか要らないかで言ったら、無駄か無駄じゃないか、で言ったら、
無駄、面倒、億劫、って思う人の方が多いと思いますよ
他にすることがたくさんあるんだ、
他に楽しめることが山ほどあるんだ、って言われたら、
これが何よりも楽しくて、有意義なこと、だなんて言えません

でも、そういうことじゃないんだ、って私は各所で伝えてきました
人は、人と関わって生きている
私たちは、他に多くの人が住んでいるこの町で、この都市で、この国で、生きているんだ
テレビやネットを見れば、もっと遠くの、広い世界が覗けるかもしれないけど、
実際に手が届くこんな近くに、多くの人がいるんだよ、ってことを、
ただ当たり前に、普通に実感できるという、かけがえのないメリットがあるんです

“子どもひとりが育つには村じゅうの人が必要”

便利な世の中になって、
何にも不自由しないでしょう
子守をしてくれる人がいなくても、
テレビやスマホを見せておけば子どもはおとなしくなるでしょう
近所の人と関わらなくても、ネット上で検索すれば困りごとは解決するでしょう
隣に誰が住んでいるかわからなくても、暮らしには困らないでしょう

でも、
子どもは、そんな現代の大人が当たり前に個々でこなしちゃういろいろを見て、何を学ぶでしょう
いざ、園生活や、学校生活が始まったとき、他者との関わりをどのように経験し、どのように意識するでしょう
身内や仲良しの友達ばかりに囲まれて暮らすわけでもなく、気の合う人ばかりではないただの地域での暮らしを、大人が真剣に普通に向き合って過ごすのを見せてるいだけで、子どもは勝手に学ぶのではないでしょうか
なんにも見たことがないのに、自分の前に他者が現れて、自分の意に反すること、自分とは全然感覚のちがうことを言ったりされることがある(そんなの当たり前)
それだけで心が折れてしまう、そんな子が増えている現在ですが、それは、それまで他者との関わりを見せてこなかった大人の責任もあるのではないかと思いませんか

とはいえ、
現状、コロナ後の地域社会の崩壊、人と人との結びつきの崩壊は著しく、今から元に戻すのはきっと大変で、不可能に近いんじゃないかと思ったりもします
本当に、取り返しのつかない状態になってしまっています

清川先生はおっしゃいました
子どもが育つ上で、もはや、(いますぐ)「村じゅうの人」を期待しても無理
だから、
今の時代、その「村」を担うのは、保育園、幼稚園なんじゃないか、と

親が、子どもを初めて、親以外の大人に委ね、1日の数時間を子どもだけで過ごさせることになる、保育園と幼稚園

親は子どもを産んだ、というだけで、保育や教育の専門家ではない
正直、親は子どもについて全く勉強していない、全く知らない
かつて、「村じゅうの人」が未熟な親に関わることで子どもが育っていったように、
園の先生達は、同じように関わり、親に教え、導く役割があるのです、と

そうなったらいいなあ、と心から思いました
私は教育業界でしばらく働いてたくさんの子どもや保護者と関わってから親になりましたが、
多くの人は子どもを産んで初めて、子どもを育てる、ってどういうこと?考えます
我が家が御世話になった保育園では、先生達は勉強会や研究会で学んできたことを、当時は保護者を集めて教えてくれましたし、通信を出して保護者にいろいろな注意をしてくれました
食べる物や寝る時間、メディアの害、外遊びの大切さなども
お迎えの時などに保護者を捕まえて、ちょっとした注意や気になることを伝えるなどしてくれた先生もいました
でも、「いちいちうるさいよね」「お金払って預けているんだから、文句言われたくないよね」「理想は理想、現実はそうはいかないよね」「こっちも1日じゅう働いているんだから!!」などと愚痴っている園ママもいましたが…

そして、さらに、最近、保育士をしている知人数人が共通して言うのは、
「保護者に注意なんかできない」「子どもにも言えない」
という衝撃の事実です

私の子どもがまだ小学生だった10年ほど前に、
友人が、急に幼稚園から電話がかかってきて、怪我をさせてしまった、と激しく謝罪されてびっくりした、という話を聞きました
友人は驚き、どんな大けがかと思って迎えに行くと、ただの擦り傷だったと
たぶん、その頃から、何かがおかしくなっていったんだと思います
擦り傷でも怒って騒ぐ親がもういたのだろうと
それからそういった話はどんどんエスカレートしていきました
最近では、
夜中まで動画を見ていて朝から活動できない園児に対し、親にちょっと状況を聞こうと声をかけたら、激怒され、園長に訴えられ、その先生が園長に厳重注意された、という話がありました
明らかに家庭に問題がある、と思っても、絶対に助言や注意をしてはいけない、という決まりのようなものができたそうです
教育委員会や、市役所に電話されてしまう、という例も聞きました

親がそんな調子では、「村じゅうの人」に園はなれません

いま、子育て支援や応援の場は昔より増えているように思います
そして、いま、「子ども誰でも通園制度」というのを国は検討しています
赤ちゃんから2歳までの子どもを、週あたりの時間上限はありますが、働いていない親でも園に預けられる、という制度です
まさに、
密室育児の救世主!と思いきや、
双方の覚悟が相当いる制度だと思います

通園している園児ではなく、スポットで子どもを預かる
ペットのようにケージに入れて預かっていればいいわけではなく、
他の園児と同じように預かるわけですが、
果たしてうまくいくでしょうか

いま、子どもに関わることは特に、「子どもに何か問題が起きたら全て誰かのせいにする」というのが流行しています
子どもの問題行動、子どもの成績低下、子どもの反抗…都合の悪いそれらが起こると、子どもの周囲のいろいろを疑い、責任をなすりつける保護者がとても増えているそうです

自分から人と関わろうとしない
地域社会に踏み出そうともしない
対人関係とはどういうものか、そんなのを子どもにほとんど見せることもなく、突然、子どもを社会に放り込む
園や、学校で、子どもたちは初めて対人関係を経験する
なんてことなく乗り越えちゃう子もいるでしょう
適応能力によって、勝手に難なくクリアしちゃう子もいるでしょう
ただ、明らかに適応できない子が増えている
それは、保育士や幼稚園教諭、小学校の教員をしている友人、知人からの現場の声でわかります
それに、うちの子は平気、適応できてる
オレは平気、と、自分が平気なだけじゃダメなんです
周囲をちゃんと見ているかどうか
平気な子は平気な子で、平気じゃない子に気づかないとなんです
元気で平気でなんなら優秀で明朗な子はいつの時代にもいます
でも、そういう子も周囲に関心がなかったりする光景を最近はよく見かけます
優秀で、大人にも堂々としていて、何でもできるすごい子はいるけど、
本当に立派な子には滅多に会いません

そんなときは、大空小学校の木村泰子元校長先生の言葉を思い出します
障がいのある子が多い普通学校なので、定型発達(いわゆる健常児)の子もたくさんいます
できる彼らが自分のことをなんてことなくこなし、平気な顔ですましていると木村先生は言うんです
「自分さえよければいいんか?」と
運動会、
自分はコースを普通に走れる
でも、コースがわからなくて走れない子がいる
どうするん?
自分が走れるからそれでええん?
と先生は問います
運動会当日、命じられるでもなく、走れない子の伴走をする子が複数人出てきます
自分さえよければいい、と教育されていたら絶対にそんな子は出てこないでしょう
合唱コンクールで歌っている途中に倒れた子がいても歌い続けるよう厳しく指導した中学校教員のことを思い出します
練習中、同様にうずくまったクラスメイトがいて、当然ですが指揮を止めた娘は厳しく叱責されたのです
そして、本番で全校生徒と保護者にその光景が繰り広げられました…
家族で車の中でコンビニの何かを食べたのか、窓の外に放っている人たちを見たのも思い出します
まさに「自分さえよければいい」を教育しているんだな、という大人たちの例です

私も教室でそう具体的でなく、ごく自然と、そんなことを意識して言葉を発します
こうせい、ああせい、なんて言いません
でも、自然と、自分さえよければいいって思わない子が育ってます
それは私のせいじゃなく、各ご家庭のおかげなんですけど、
たとえば、
誰かが色鉛筆を落とすと、
3人くらいがぱっと拾いに動くクラスがあります
私がむせて咳払いをしていると、そっとこぶしを差し出し、私の手を開かせて、飴を載せてくれる子がいます
全員が通過するまで、ずっとドアを開けて待っている子もいます
これって、ひとりじゃ経験できない、ひとりじゃ思いつかない、家族だけじゃこんな気持ちを味わえないんだよなあ…と、そういう光景を見る度に思います
それでも、何年通ってても、6年生になっても、ボードゲームを広げると、自分が取りたいコマを我先に、と取ってすましている子もいます
気質なんだろうなあ、と思うようにはしていますが、みんながどれがほしいか一番に考える子もいて、子どもの観察は本当に興味深いです
ちなみに、親が混じるとその態度を豹変させるのもよくある光景…
気質とは違うかな?と発見するときです

村じゅうの人
それには、同世代の仲間も入っています
村じゅうの人
すべてが子育て、教育のプロで、正解を知っている人ってわけでもありません
色んな人と関わって、家族で話す、こんなことがあったね、あんな人がいたね、あの子はこうだったね、どうしてなんだろうねって話題になる
それだって、人と関わっていなければない話題です

密室育児、ワンオペ育児、と苦しんでるお母さん達は多くなっているのですが、それは、すでに親世代が、人とどう関わったらいいのかわからない、そういうのを難しく感じる、という、そういう人が増えているからなのでしょう

帰宅したお父さんに話しても、自分ごととして受けとめない人も多く、お母さんはますます悩んでしまいます
お父さんも親なのに
なぜ私だけ…
そんなお父さんたちの愚痴を言い合う近所の仲間もいなかったり
子どもを安心して一緒に過ごさせることができる仲間もいなかったり

子どもがまともに育つために…と清川先生はつけ足しました

村じゅうの人が、必要

でも、だからって子どもの成長を村の人のせいにして、自ら学ぼうとしない姿を見せていたら、子どもがまともに育つわけはない

身勝手で、思いやりのない、なんならメンタルも弱い子になってしまうでしょう

人との関わりに慣れていない、苦手としている大人が親になったとしても、ほんのちょっとの勇気と、せめて、自分の中の意識だけでも変える努力ができたら、きっと子どもに見せてあげられる景色がかわる
子どもが「こういう町」「こういう家」と幸せに思いながら成長することができるのです


清川先生の講演で心に残ったのは、
みんなが自分ごととして真剣に考えるべきだ、という悲痛なほどのメッセージ
誰かのせいにしたり、誰かを頼りにしすぎたりして、自分では待っているだけ、なんて、結局、そういう姿を子どもに見せることになってしまうんだよ、ということ

そして、とても深刻で、多くの人に事実として知っていてほしいのは、
(特にスマホ中毒になりかけているのにオレは違う、って思い込んでいる多くのお父さんたちに知っていてほしいのは)

東京の中学生の15%が電子画面の影響と考えられる「強度近視」であるという事実
強度近視とは、将来失明の恐れがある状態
すぐに影響は出なくても、その子が20代、30代になったとき、働き盛りの大人になったとき、目はどうなっているか、想像してみてほしい

10代から30代の若年層の死因の第1位が自殺である、という事実
G7+韓国の中で、日本だけ

電子画面、特にスマホの長時間使用で、いわゆる「スマホ首(頸性神経筋症候群)」状態になると副交感神経の働きが低下し、原因不明の心身の不調が表れると言われており、同様の研究から「電子画面に触れる時間と希死念慮(自殺願望)」の相関がある、という結果を出している学者さんもいるそうです

人類の歴史上、こんな状態は一度もなかったんです
人間は、二足歩行をし、目や耳を働かせて周囲の状況を感じ、体を動かし、仲間と声をかけあって協力して暮らして発達してきました
電子画面の使用、特に電子ゲームを操作している間、脳の「前頭前野」がほとんど動かないことに着目し、長時間使用により前頭前野に悪影響がある、という研究結果も発表されたのは随分と昔のことです
講演会の最後に質問もありました
電子画面が脳に与える影響は?と
前頭前野とは、類人猿の中でもヒト(人間)が最も発達している脳部位で、サル→チンパンジーゴリラ→ヒトの順に大きく発達している部分だそうです
ヒト自身の発達上では、「最も遅く成熟する部位」で、老化に伴って「最も早く機能低下が起こる部位」の一つでもあります
この前頭前野が何をする部位かというと、ワーキングメモリー、反応抑制、行動の切り替え、推論などの認知、実行機能などと担っているそうです
ワーキングメモリーとは、脳に入ってきた情報をいったん保持して、どの情報を覚えておき、どの情報を削除していいのかを整理する力です
反応抑制とは、不適切な運動反応を抑制する機能です
たとえば目の前に欲しいものがあっても、何も考えずにそれを取り上げて奪う、ということをしない機能です

電子画面の長時間視聴、ゲームの操作などにより、この、前頭前野が動かないということは?
そのときだけ動かない、あとは動いてるんだから大丈夫、じゃないんです

足を使って歩いたり走ったり遊んだりしなくなった子どもたちが、大人になったとき、どうなるか想像できるように、子どもの頃から前頭前野を動かしていたか、止めていたか、で、将来大きな違いが出るのは当たり前のことです

子ども時代はいいですよ
親がずっとそばでサポートしてあげればいい
足が疲れて歩けない、と言い出したら車で送迎してあげればいい
重くて持てない、と言われたらカバンやランドセルを持ってあげればいい
でも、
いつか親のそばを離れたら?
動かさなかった前頭前野、動かさなかった足腰のせいで、
大人になって我が子が生きづらさを抱えることになったら?
希死念慮にとらわれて生きることになったら?
ちょっと想像すれば、足がすぐ疲れる、重いものを持てない、なんてわがままをすぐに聞いてあげるより、他の対策があると気づきませんか?

ゲームの何がいけないの?
テレビはいつまで見せないつもりなの?
どんぐり家庭でも、親族やお父さんにそのように追及されて困惑しているお母さんが多いです
稀に、お父さんじゃなくてお母さんがそういう抵抗を持つ家庭もありますが

清川先生の講演に、私が解説できるのはここまでです
ここまで書いても、
まだ、
見せないとかわいそう
ゲームを買ってあげないと友達ができない
園児や小学生時代に、そのような考えから、子どもを電子画面依存症予備軍に育ててしまっている家庭は少なくありません
もしそのような行動をとるのであれば、ずっと、永遠に、子どもの人生の責任を担い続けてください
普通考えると、それは不可能だと思いますけど…(親は先に死ぬのだし)
そうやって、ヒトが人間として生き続けてきるためにしてきた当たり前のことを優先させないつもりであれば、衰える能力があることも知った上で実行するのなら、いつか子どもが生きづらさを抱えることになっても、その責任をちゃんと担ってください

さて最後に、
前頭前野、活性化ってできるの?って話なのですが…補足しておきます
私も数十年前にこの辺りは一生懸命勉強したのですが、難しい言葉やなんかは忘れてしまいました

でも、覚えているのは、
…というか、サルやチンパンジーよりそこが発達したのが人間なんだ、って考えるとそれは簡単だと思うのですが、
賢いサルやチンパンジーには、人間みたいに賢いことができる子もいますが、それでも、彼らに絶対にできないことを想像したらわかるのでは

前頭前野が何をしている時に活発に動いているか、研究した脳科学者の先生の話を聞いたことがあります
前述したように、電子画面の操作、デジタルゲームを操作している時には動かないに近い
逆に活発に動くのは、予測できないことに挑戦している時、初対面の人と話すとき、ルーティンじゃないことをしているとき、だったそうです

それらが、前頭前野を活発に動かす、というためのヒントになるのでは

そりゃそうですよね
サルからヒトに進化した過程で、
安定したルーティンなどまだないわけで、
それどころか、すみかの周囲は野生動物など危険がいっぱいで、
気候変動にも命がけで、そして、
一部のサルが互いを思い遣り、助け合うという変異を遂げ、ヒトに進化していったのだ、と

さあ、私たちができる前頭前野活性化ライフとは

ひとまず、
私は子どもたちと山歩きに出かけます
初対面の子どももいれば、顔見知りもいます
親同士だってそうです
歩くコースや道はいつもと同じだけど、
自然って、1日も、1時間たりとも、「同じ」「ルーティン」なんて存在しないんです

だから、
私は子どもたちを誘います
親御さんたちも一緒に、ぜひ

おしゃべりが過ぎました
ご清聴ありがとうございました