図書室の棚に加える前に、
最後にもう少しだけ印象に残った章の一部をご紹介します

子どもという「かけがえのない未来」
 子どもが生まれてくると、あらためてわかることがあります。子どもは何かの目的をもって生まれてくるわけではありません。人の一生もそうです。生きる意味や目的を言いたがる人はたくさんいますが、私たちは何らかの目的のために生きてきたわけではありません。毎日、生きることに必死になっていれば、そんなことを考える余裕なんてありません。
 1人ひとりの一生はなんだからわからない、理由などよくわからない一生です。子どもだって将来どうなるかわかるはずがありません。そういう当たり前のことが、都市に暮らしているとわからなくなります。
 都市だったらら設計図を書いてぱっと作ることができますが、自然相手の手入れには設計図がありません。
「ああすれば、こうなる」は人工の世界、都市の世界です。自然はそういうものではありません。ああすればこうなるほど単純なものではないと、私は思っています。それを現代社会では、徹底的に人工化していこうとする。「ああすれば、こうなる」と考えています。
 すべてが予定の中に組み込まれていったときに、いったい誰が割を食うのか。それは間違いなく子どもです。子どもはなんにももっていないからです。知識もない、経験もない、お金もない、力もない、体力もない。何もない。それでは子どもがもっている財産とは何か。それこそが、いっさい何も決まっていない未来、漠然とした未来です。
 その子にとって未来がよくなるか悪くなるか、それはわかりません。ともかく彼らがもっているのは、何も決まっていないという、まさにそのことです。私はそれを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。
 子どもの頃、よくバケツにいっぱいカニを捕って遊んでいました。「おまえそれをどうするの」と言われても、別にどうするわけでもない。捕ったらあとは放すしかありません。子どもはそういう目的のない行為が大好きです。生きているとは、そういうことです。
(後略)

子どもの身体性を育てる
 動物は共鳴することを知っています。
 子どもたちと一緒に、虫捕りのために山に行ったときのことです。山から下りてきたとき、とても暑かった。犬を散歩で連れていた人が、海岸で犬を放すと、犬は海に飛びこんでうれしそうに泳いでいました。動物と海とは共鳴しています。
 子どもたちもさぞかし海に入りたいだろうと思って見ていましたが、誰も海には入りません。勝手に泳いではいけないと思っている。いまの子どもは犬ほどにも幸せではないかもしれません。
 江戸時代末期に日本を訪れたある外国人が、「子どもたちが幸せそうにしている」と旅行記に書いていたのを読みました。当時はたくさん子どもが生まれても死んでしまう子も多かった。あっけなく亡くなってしまう子どもを見ていたから、親は子ども時代を存分に楽しませてやろうと思ったのでしょう。
 現代は子どもがそう簡単には死ななくなり、子どもの人生は、大人になるための予備期間になってしまいました。「将来」という言葉で子どもの人生を縛って、子どもの時代を犠牲にしてしまうのです。
 暑いときに冷たい水に触れると、「気持ちいい」という感覚が皮膚を通じて入ってきます。それを感じることが共鳴です。共鳴は身体や感覚で感じるものです。
 いまの子どもはそういう身体の感覚を経験することが減っています。いろいろなことを体験させようと言っている人は多いのですが、どうもピンときていないように思います。
 知人の崎野隆一郎さんは、栃木県の茂木で、夏休みに「三十泊三十一キャンプ」というプログラムを行っています。何もない森の中で、屋根のついた小屋だけがある。そこで子どもたちは、朝から晩まで身体を動かして暮らします。毎朝自分で水を汲み、マッチなしで火を起こさなければご飯が食べられない。トイレも階段を百段くらい上らないと行けない。
 キャンプ中、手取足取り教えるようなことはしません。そこで学べる一番のことは身体性です。人間にとって、自分の身体性は最も身近な自然です。自然は思うようにならない。それを自分で理解するのです。子ども自体が自然ですから、一日、二日で慣れていきます。日常の中に必然性が組み込まれていると、自然に親しむも何もなくて、ひとりでに親しんでしまうわけです。ボタンを押せばなんでもできる生活では、こうした身体性は育ちません。

最近、
あまりにもたくさん、連日、
「子どもの将来が不安で…」という相談を受けて、
私自身、ふとしたときにそのことばかり考えています
関係あるのかな、ないのかな、ってよくわからないけど書店に行けばいろんな本を手に取ってしまうし、もしかしたらこれが原因なのかな、これがヒントになるのかな…と、何か見聞きする度に考えてしまいます

私自身、子育て中、「子どもの将来が不安」だと思ったことはたぶん1mgもなくて、だから、いったい、何がどう不安なの?と不思議に思って質問してみると、結構みなさん具体的に、子どもの進路(どんな学校へ進学するのか)、子どもの勉強面でのこと(成績が悪くならないかどうか)など、まだ小学生にもなっていないような小さなお子さんをお持ちの親御さんからも、そのような悩みが出てくることがあります(相談相手が私だからっていうのもあるのでしょうけれど)
それから、小学生の親御さんからは「中学をどうしようか」という悩み相談も多いです
小学校入学を控えた御家庭からも出てくることはありますが、
最近は、公教育以外の選択肢も少し増えてきたので、具体的に、「じゃない選択」を考える余地ができたんだなあ、と思います
そうやって、選択肢が増えたこと、また、選択をした人たちが自分たちの状況を発信するのでそれらの情報をキャッチする度に、うちはどうしよう…どうしたらいいんだろう…と具体的に悩む項目が増えてきたのではないかと今のところは考えています
たいした選択肢もなく、ひとまずほぼみんな、ある程度まで一緒にどさーっと子どもが育っているくのがふつうだった時代にはなかった悩みかもしれません

それから、
養老先生が書いているように、本来「自然」であるはずの子どもたちが、あまりにも「不自然」に「人工的」に育てられていることによる弊害も大いに感じます
放っておけば子どもは勝手に選択し、成長していくのに、放っておけない
子どもが選択する前に親が選択し、子どもが失敗する前に失敗させないように手を出してしまう
その結果、自分で選択することも無意味に無謀に試してみることもできなくなり、失敗を恐れてただ指示を待っているだけの人に成長してしまう
自分で考えなければならなくなったとき、手取足取り教えてくれる人がいなければ身動きできないと気づき、次の一歩を踏み出すのに、自分の脚を動かせばいいだけなのに、深く思い悩んでしまう
そんなことにひとりひとりが必死だから、周囲に目を配ることもできない子がとても多いです
みんながみんな同じ能力を持ち合わせてはいない
だから、お互いが補い合うのが人間なのに、自分より劣っている人間を蔑み、自分が優位に立つことを誇るだけで歪んだ優越感を味わいながら成長してしまう子もとても多いです

勉強ができる、スポーツができる、先生に認められている…等々、私は、なんなら、そういった成績のいい子ほど、親が注意深く見守り、周囲に目を配り、心を配ることを教えればいい、と思いますが、かなりの確率で親御さんも似たような性質を持っていて、自分さえよければいい、自分たちさえ豊かならそれでいい、と自然に思ってしまっているんだな、と気づくこともあります

私の教室にとても優秀で、リーダーシップを取れるような子達が集まっているクラスがあったとき、よくその話をしました
勉強ができて、性格もよくて、視野が広く、将来の夢もグローバルでダイナミックで素晴らしいものでした
個性を重んじる私学教育に恵まれ、いろいろな意味で豊かに成長していた彼らでしたが、私は敢えて、世の中がどのように構成されているか、考えてほしい、とよく話していました
たとば公衆トイレがいつも綺麗になっていたとしたら、それは誰のおかげなのか
エレベーターが安全に動くのや、事故や遅延の心配をほとんどせずに電車に乗って旅ができるのや、私たちが身につけているこうした衣類や、そして、道にゴミが落ちていなくて、集積場所にもゴミが溜まっていないことも、遠方からの荷物が迅速に届くことも
全て、
誰が関わっているか考えてみてほしい、と
人前に出て堂々とスピーチができたり、独自の発想でアイディアを語り、夢を語る人だけが、リーダーシップを取れる人だけが、社会に役立つ人ではないことを
人知れず、皆の安全のために地道な努力を毎日してくれている人たちがいる
人前に出ることがなくても、その人自身のアイディアを生かしていなくても、アイディアなんか持っていなくても、決められたことを決められたように正確に持続的に遂行できる人たちがいることを

話が逸れましたが、
子どもに関わる大人として、私は、目先の目標よりもずっと、子どもにいま、伝えておくべきことがあり、目標としてほしいことがあるなあ、と、考えます

前頭前野の発達によって、
私たち人類は思いやりを持ち、助け合いながらここまで来ました

遠くの戦地の悲惨さに涙を流し、なんとかしてあげたい、と思っても、
実際には目の前の子どもに、思いやりを持って接していない可能性があります

遠くの戦地のことなど想像もできないし、助けたいなどと思うこともない動物たちは、
目の前の我が子を自立させるために必死で生きています

養老先生の書いているように、動物たちはかつての人間のように、毎日生きることに必死なだけ、子どもたちに生き延びて、また子孫を残してほしいから、逞しく自立させたいだけ

算数や英語やスポーツで、優秀な成績をとってほしい、と願うのは自由で、それが親心ってやつだと知っています
でも、
その前にもっと、大事なことをちゃんと教えないとなんです
私たちは人間だから
人間として、人間の子どもをまともに育てる義務があります

「ああすれば、こうなる」なんかじゃない子育てに、もし悩んでいるなら、
自分を縛っているものはなんなのか、見つけてみてください
親御さん自身の中に、「ああすれば、こうなる」教育を受けてきて、がんじがらめのまま大人になっている人も多いです

その呪縛は、誰かのせいかもしれないけど、大人になった今、親になった今、それを誰かのせいにして恨む暇などありません
目の前には私たちを見上げてくる「かけがえのない未来」という財産を持った子どもたちがいます
それぞれの未来を、私たちはどう操作することもできません
本当に、できないんです
できると思っている人はいませんか?
大人が子どもの人生を、操作できると、思い込んでいる人は

もっとこうしてほしい
もっとこうあってほしい
だからこうすべき
ああすれば、こうなる

子どもが、子ども時代を子どもとして満喫しなければ、
いつか子ども自身がまた同じ悩みのループの中に迷い込むことでしょう
迷っても抜け出せるだけのエネルギーが備わっていればいい
でも、大人になった我が子が誰かに「助けて」って言えて、
親の自分たちが助けてあげられる保証はありません
親が助けてあげられる可能性は極めて低いです

それよりも親御さんがまず自分の呪縛を解いて、
子どもを育てる機会をいただいた幸運をかみしめ、
子どもの子ども時代を一緒に味わって満喫して、
思い切り子ども時代を守り育てることができれば、
きっと、
子どもの「かけがえのない未来」の片隅に、親の私たちも混ぜてもらえるんじゃないかと
かけがえのない、輝く未来を、一緒にちょっとだけ、見せてもらえるのじゃないかと
もちろん、
私たちには私たちの、未来が待っているんですけどね

こんなに楽しいことはない
子どもと暮らせて、子どもの子ども時代を一緒に見せてもらえることは

そう、噛みしめているうちに、あっという間に私の子どもたちは大人になってしまいましたよ

「子どもの将来が不安で…」という気持ちの本当のところは、
子ども自身の不安ではなく親御さん自身の不安なのです
子どもが将来成績が悪かったらどうしよう
子どもが将来いじめにあったらどうしよう
子どもが将来○○高校に行けなかったらどうしよう
子ども自身が、いま、そんな具体的な不安を持っているはずはありません
そのような問題に実際に直面したら不安がるかもしれないけれど、
不安だったらどうしたらいいか、子ども自身がまた、見つけて前進していくしかありません
親は子どもが必要とするとき、手を差し伸べるだけです
必要とされてもいないのに先手を打つ必要はないのです
打てば打つほど、子どもは弱く、脆くなっていき、思考力も失います

親が子どもの財産であるかけがえのない未来を減らしている…それは、
子どものためを思って、という、親自身の不安から来ているんです

そんな不安を抱いてはいけません!と言いたいわけじゃないんです
不安をちゃんと吐き出して、みんなで共有して、できればやっつけましょうよ!って言いたいんです
そのために何ができるかなあ…って最近、ずっとずっと、考えているんですよ