谷川岳麓トレッキング中の景色

少し前に、
私がSNSで投稿した子どもたちと工作をしたときの感想を読んでくださった方から、
何通かメールやメッセージが届きました
その中から、
私が書いたものよりずっとわかりやすく知的な文章でコメントくださったあるお母様からのメールを、許可をいただいたので、ここに一部転載いたします

「工作」での待てなさ…すごく感じます。
私が直近で感じているのは工作ではなく、会話です。
大人同士での連絡事項を話しているにも関わらず、自分の言いたいことを断片的に話しかけてくるので、話が進まず静止せざるをえない。児童は高学年の子です。
小4の授業参観では、先生や同級生の発言にただただ反応をして喋り続け、指名を待てない。「考え」にまで至っていない呟きをただ反射的に口走っているだけで、双方向のやり取りにはなっておらず、発展性もなくただ、騒がしいだけで終始しました。
ここで思うのが、人間に話しかけていると言うよりは、「コマンド入力」[Siriとして活用している]「検索している」感覚なのであろうと言うことです。
子供ですから要領を得ない問いかけの場合も多く、こちらから詳細を確認するために聞き返したりしているのですが「ハア?なんて?!」と語気強く食ってかかられることも度々あったので、同じ子に何度がそれを言われた場合は身を引くことにしました…。
ゲームならコマンドに対して規定の反応がなければ「バグ」ですしね…。
「バグってるな、このおばさん」と言う顔をされますよ…。

個人的には、検索やネットフリックス、Amazonプライム等の、オンデマンドが当たり前の環境に慣れて、『自分の要望→サービス提供』までの流れにタイムラグがないこと、サブスクリプションなので金銭的な制約もないことは、大きな原因の1つだと感じています。
好きなアニメなら1週間、月刊誌の発売なら1ヶ月、好きなアーティストのアルバムなら年単位待つのは当たり前でした。無料のものは待っていればいいけど、有料サービスについては、お小遣いを貯めるか上手くねだるかを真剣に考えたり、なんなら収納問題も絡んできて取捨選択を迫られたり…、ままならないものだったように思います。
なんせ「待つ」、「何かを我慢する」、「諦めることを納得する」ことを体験する(子供にとっては体験させられてしまう)機会が、充分にあったのですが、それがほぼ取り払われ、確実に眠っているその能力が目覚める機会が奪われているのだと思います。

もう一点「学校の謎ルール」について、同様の疑問とそれが児童自身により再生産されるという理不尽に今まさしく親子で頭を悩ませ対応中です。
「昼休みは遊び係の決めた遊び(今のところ鬼ごっこかドッジボール)に全員参加する」ことを強制されているという状況です。遊びがかりの遊びが週3、カラオケ係が週1(クラスメイトの歌を聴く)、都市伝説係が週1(検索でヒットした都市伝説を読み上げるのをきく)と言うものでほぼ全ての昼休みが埋められてしまい、自分のやりたいように過ごせないそうです。ちなみに全員参加というのは遊びがかりの児童が言い出しただけで、学級会で話し合って決まったものではありません。
鬼ごっことドッジボールが嫌いで、休み時間には読書やお絵かきをしたい我が子は、参加せずにいるのですが、休み時間後に「なぜ来ないのか」と詰め寄られてうんざりしています。正直4年生になってから明らかにイライラが募っており、学校に行きたくないと言い出すまで時間の問題だと感じています。
 担任の先生にはみんな遊びの全員参加に納得がいっていないこと、を伝えたところ「話し合いしようか」との返答があり、我が子も話し合いの場で自分の意見を言う準備、反論に対しての妥協案など考えていましたが、2週間たっても未だ学級での話し合いの場は持たれず、全員参加のルールはそのまま継続しています。「話し合いで頑張れば事態が好転するかも」と言う期待がうやむやになってしまい、気落ちしています。
私が怖いと思うのは、口では「え〜!」と不満をもらしているにも関わらず、結局参加している児童がほとんどであることです。口ではブーブー言ってはいるけど実際にはまんざらでもないことも結構あるので、参加した結果、楽しんでいるのであればいいと思っています。しかし、中には「後で小言を言われたくない」ので参加しておくと言う判断をしている子もいることが怖いです。
入学以来、コロナもあって常時異常な規制に晒され、意味不明なルールを守らせられ続けたせいで、ルールと名がついていれば疑わずに従う、不満があっても従うしかないと考える子供の多さを考えると、学校が主体性を持つなと言うメッセージを送っており、子供たりはその通りに育っているのだと改めてわかりました。
遊びがかりの児童については主体性を発揮していると(100歩譲って)言えなくもないか?とも考えましたが、結局クラスメイトに対してやっていることは「コマンド入力」なのだと思います。
相手も1人の人間で、その人独自の考えと感情と事情を抱えていること、がすっぽりと抜け落ちている感じがします。
引き続き話し合いが開催され子供自身で解決できるかの挑戦を見守りつつ、保護者としてもすぐに動けるだけの準備をしておきます。
謎のルールの世代間再生産というサイクルはすでに出来上がっています。
慣例という名の謎のルールを断ち切れるのは、常に自分の頭で感じ考えることの出来る人間だけだと思うのです。
我が子が声を上げられたことが誇らしいです。
常に摩擦が多くても流されずに我が道を行くところを見ると、逞しくなったなと感慨深いです。

最後になりますが、ついにタブレット端末の持ち帰りがスタートし、週予定と宿題のプリントが廃止され、アプリでの宿題が開始されます。
この流れはもう止められませんが、このことが子供達にどのように変化を起こすのか、タブレット学習のメリットという的をいない理由を並べたプリントを配っただけの教育委員会、市内でもいち早くタブレットでの宿題導入を決めた小学校には、「懸念を抱いている家庭がいること」くらいは示しておこうと思っています。
始めるのは簡単ですが、撤退の判断をできる仕組みになっているのか、撤退するとなった時でもその間の実験台となった子供達の子供時代は帰ってこないと思うとやるせないです。

あまりに聡明な文章に、私は感嘆のため息をつきながら何度もいただいたメールを読み返していました
そして、みなさんにも読んでいただきたい、と思ったのでした

学校の謎ルールや謎管理について、投稿の前後に見聞きした最近の傾向は、全国各地でわりと一致しています

現在高校3年生の次女が小学校低学年のとき、つまり、10年近く前のことですが、崩壊クラス請負人と自他共に認める教諭が、徹底した管理教育を1年間強いて、すっかり確かに崩壊クラスが建てなおったことがありました
この話は何度も書いていると思いますが、
その1年間、次女は毎日「学校に行きたくない」と漏れなく言い続けました
糸山先生に相談すると、「学校に行かせない、というアピール方法もある」と助言を受け、私は崩壊の原因もならず、先生に叱られるような言動もせず、むしろ存在感を消し、真面目に管理教育に従っている我が子が、家で、このような状態です、と何度も告げました
でも、意味がわからないみたいでした

数日前、別の保護者さんからやはり、学校の管理教育についての話を聞きました
ボランティアで学校に出入りしているのでときどき授業中の様子を目にすることがある、というそのお母様は、何度も見るある光景を異様に思って担任に問うてみたのだそうです
すると、
「そう習ったので」
と、その教諭は答えたそうです

これは、何度か他の方からも聞いたことがある言葉です
学年主任に?
大学の教職課程で?
どこで習ったか知りませんが、確かにちょっと考えたら異様なことも、平然と子どもたちに強いている状況は各地から報告を受けますし、私自身も何度も目撃してきました

授業中前にでて、黒板で問題を解く子に、先生がかける言葉も、それに対して他のクラスメイト全員が返事をする言葉もタイミングも、なんなら体の動きまで全て決まっている
子どもたちが一糸乱れず、その指示通りに動き、声を出しているその光景を、「異様だ」と思っている保護者さんがいる…もちろん、異様だと思わない保護者もいるでしょうけれど…

これも何度も書きますが、某スポーツの全日本のチームをオリンピック金メダルに導いた有名な女性の監督が我が子の中学校に講演に来たとき、私も保護者として楽しみに出かけ、体育館で待機していたのですが、そのとき、「異様だ」と思った光景を、見事に壇上からその監督も声をあげてくれたことがありました

私が異様だと感じたのは、
先に保護者やPTA役員が体育館に入り、着座し、そのあと、生徒たちが入ってくるのですが、その際、列を乱さず、誰も何も話さず、黙って静かに入場してきたのです
まだゲストも壇上にいないし、ただの、自分の学校の体育館に入場するだけで、卒業式でも入学式でもない、そんな厳粛で特別な日でもないのに、儀式のように、軍隊のように、しっかりとした隊列で少しずつ入場した生徒たちは、順に「体育座り」をして始まるまでまだずっと、黙っていました

私は塾生や近所の知っている子を探してきゃっきゃと手を振ったり、隣の保護者とおしゃべりしたり、わざとリラックスした雰囲気で待っていました
保護者も黙っていろ、と命じられてはいなかったので
でも、私と目が合って私が手を振っているのに気づいても、手を振り替えしてはいけないようで、にこっと笑ってすぐ目をそらす子がほとんどでした

やがてゲストの監督が舞台袖に入場し、PTAの役員さんの司会で校長の挨拶のあと、監督が舞台中央に立ったとき、首を傾げ、一言目に言ったんです

「なんでこんなに静かなの?喋ってはいけないの?始まる前からずっと?」

生徒たちも、周囲の教員達も、唖然としているように見えました
私は心の中でガッツポーズとも違うけど、あまりに私の思っていたことと同じことを感じてくれていたことに感激していました

「まだ始まってもいない、誰にも迷惑かけるわけでもない、それなのに、そんな風に待つんですか?」

細かい言葉は覚えていませんが、そのあと、「先生、誰か答えてください」みたいなことをおっしゃって、教諭の1人を指さしたけど、返事もしなくて、小さな声でもにょもにょ言ったのをたしなめられていたのを覚えています
また心の中で思ったのです
生徒には大きな声ではっきりと、返事も発言もちゃんとできるまで注意するくせに……

講演の中でも、
もう中学生なんだから、静かにするべきとき、場所、少しは声を立てていい場所、とき、そういうの、自分で判断していいんだよ、と何度もおっしゃっていた記憶があります
そして、あなたは何部なの?何のスポーツを見るのが好き?などと、何度も何度も、生徒たちに手を挙げさせたり、声を出させたりするような講演をしてくださいました

ああ、その通り
その通りなんです
と、
何度も何度も葛藤してきた管理教育について、このように驚いて指摘してくださったことに感激したのです
でも、
それがその後、何かの変化につながることはありませんでした
だって、講演のその場にほとんどの教諭はいなかったのです
PTAの講演中は教諭には別の仕事を課されるのか、生徒たちや保護者たちと一緒に話を聞いて、一緒に考える、という機会さえないのだな、と呆れました

もっと滑稽だったのは、「ペップトーク」の有名な講師が来た時でした
子どもにネガティブな言葉をかけない、
そういう言葉はこれだけダメージがあり、
逆に、ペップトークならこれだけ前向きになれるんですよ、と
私はまた保護者としてその場にいたので、それって生徒に言うことじゃなくて、先生に言うことで、先生が勉強することでしょ、って思って体育館を見渡すと、教諭は片手で数える程しかおらず、その少ない教諭達は生徒の頭が揺れていないか監視し、揺れていたらつついて注意する、という任務に必死でした…
その晩、その中学校の塾生たちが私の教室でしゃべっていました
「今日の話は先生が聞いてくれなきゃ意味ない。先生達はペップトークじゃなくて、プッペトークばかりだよね」と

どうして、ごく普通の感覚さえないんだろう…
そう残念に思ったことは何度もありました

先生たちは、やり過ごすしかない状況なのかもしれませんね。
子供達の読解力に危機感を覚えて、どんぐりにも興味をもってくださった先生もおられましたが、体調を崩されてしまいました。
感覚を鈍くしておかないと、身を置けない場所が現在の学校という場所なのでしょう。

前のメールのお母様からこんな言葉があり、
これまで出会ったことが結局こういうことなんだろうな、と思うしかないことに気づきました

他にも挙げようとしたらキリもない、管理教育や謎ルールの実例なのですが、
結局のところ、考えなくてはならないのは、家庭で、親に、できることはなんなのか?ということなんです
学校や先生のせいにしてあきらめたり、
自分の子がこうなったのは学校がこうだからだ、と決めつけたりするのは、
やっぱり依存であり、責任転嫁に外なりません

そうした視点で子どもたちを見ていると、
やっぱり、まだまだそうした覚悟が足りない家庭が多いなあ、と思います
危機を感じていない風に見えます

上記のようなとある学校の光景や、実例が、我が子のことと関係ないと思っているのか、
たとえそのようなことが我が子の学校であるとしても、
たいした影響はないと考えているのか、
とにかく、
危機感がない
そう感じる家庭がとても多くなっています

子どもへの影響は、
先生に怒鳴られたとか、殴られたとか、そんなセンセーショナルでショッキングなできごとの影響と比べると、ごくわずかに見えるかもしれません
でも、だからこそ、知らない間に「それが普通で、当たり前だ」とほとんどの子どもたちが思い込んで成長してしまうことが危険なのです

これも何度も書きましたが、合唱コンクールの最中に倒れたクラスメイトがいても、誰も駆け寄らず、指揮はタクトを振り続け、ピアノは伴奏を続け、見事歌い終わったあの光景
それは我が子や塾生から「何があっても止めるな」と音楽の教師に命じられているから、と子どもたちの行動の謎は解けたのですが、一番衝撃的だったのは、その光景を一緒に見ていた保護者のほとんどが、なんとも思っていない風だったことでした
私はわざと声をあげて、「なんで歌うのを止めないの?変じゃない?」と、近くの知人に言ったりしました
でも、歌い終わると保護者はただ拍手をし、次のクラスが壇上にあがると自分の子がいる保護者は前に出てカメラを構える、その繰り返しは続きました

子どもも洗脳され、麻痺させられているように見えるけど、大人もひどいな…
我が子が小中学生の頃は、そのような光景を目の当たりにし、深く思い悩むことも多かったです
でも、
私は我が子が壊されるとは思っていませんでした
私は我が子が小学生になるとき、もっと言えば、生まれた時から、
子どもを育てる責任者は自分たちだ、と自覚していたし、
今の世の中、子どもにとって、子育てする親にとって理想的な環境ではないことは百も承知だったからです

小さな頃から、
家庭の外であったことは家でいろいろ話しました
親が言い聞かせるのでも聞き出すのでもなく、子どもが自分から話すのを聞きます
その上で、家族でよく話し合いました
どうなんだろう、どうしたらいいだろう
小さい頃はそんなきちんとした話し合いではありません
ただ、
見たことを言い、聞いたことを言う、
言いたくなるような状況を常に守る
対話する
それだけのことです
今でも何時間でも話すのですが、
それはなんでかな…と考えると、
子どもが話し合いに加わるような年齢になる前から、
常に話し合う家族だったからかもしれないな、と思います

仕事であったこと、外であったこと、昼間あったこと、
いつも他愛のないことを食事の時に、また、車での移動中なども、いつも話していました
夫婦で
それぞれの実家に行けば親子で

そこにテレビはついていないから
カーステレオもつけないから
もちろんモニターも車内にないし

保育園で、学校で、こんなことがあった、
その話題でしばらく家族で話します
大人が諭したり、助言したりするためではなく、
子どもが話してくれるような受け止め方で
また何かあってもいつでも話してくれるような受け止め方で

これまでいろいろなことがありました
学校ってなんなの!!
って憤ることも数え切れないほどありました
そんなヘンテコなルール意味わかんない、ってのも何度も通過しました
でも、
基本、外で起こったことは最後には笑い飛ばすしかない、という我が家でした
文句を言って発散して終わることもあるけど、
基本、相手の思惑をいろいろ妄想して、ま、相手を変えることはできないからこちらが受け止め方を変えようよ、って発想を転換するしかありません
子どもに共感し、同調し、一緒に泣いてしまうようなことも何度かありましたが、
あまり同調しすぎると、家以外の居場所を否定しながら生きることになってしまうので注意しました
家が一番の安全地帯で、居心地がいい、というのは大前提ですが、
だからずっと家にいたい、というのではなく、
だから、家の外で何があっても大丈夫、だって、何かあったら家に戻ってくればいいんだから、と思ってもらえるよう育ててきたつもりです

メールをくださった保護者さんが書いてくれたように、
サブスクでなんでも無制限に買える時代、
流行が刻一刻と猛スピードで流れる時代、
小中学生まではやっぱりそれも全力で阻止する意義はあるかもなあ、と、
女子高生と女子大生になった娘達を見ていて感じます
どんな時代も、どんな環境も、自らの安定した思考力と感性、そして安定した情緒と健康な体でなんでも楽しんじゃう風に見える娘達
小中学生の間は親もスマホを持たず、そもそも子どもの前で携帯電話を使わず、敢えてアナログな生活を楽しんできました
親が買ってあげない種類の本は自分の小遣いを貯めて買ったりしていたし、
おもちゃを次々買うこともなかったので、
それこそ、すり切れるほど読み倒し、遊び倒した話を笑い話で今でもしますが、
そういえば、私も、
親が買ってくれない『りぼん』(漫画雑誌)を隠れてなけなしの小遣いで買って、机の引き出しの奥にしまい込み、それこそ、1ヶ月どころか、半年でも1年でも繰り返し読んでいました
先日、そういう世代の読解力が高いのは当然だ、というようなXの投稿を見て笑ってしまいましたが、メールのお母様がおっしゃる通り、大切に繰り返し、読み込むことで自然と読解力も、洞察力も、行間から感じとる力もじっくりと身についていたんだと思うと、不便で面白みにかける、流行のスピードが遅すぎる時代が、心身と情緒と思考力を精一杯伸ばしている最中の子どもたちにはメリットしかないような気がしてなりません

だから、
逆に言えば、その時代を参考にしてみればいいんじゃないかと思うのです

私は無意識にそうしていました

我が子の時代にも、iPodを持っている子や、タブレットで次々となんやらダウンロードしたりしている友達がいたようですし、中学生になればスマホを持っている子もたくさんいました

堰き止めたのはそこまで
そこから前は自分で考えて活用しています
よく、
中学生まで堰き止めたら高校生から堰を切ったように見境なく中毒のように入れ込んでしまうのでは、ということも聞きますが、思考力が育っていればそのような恐れはありません
家族関係から、しっかりと、人とのコミュニケーションの力も育っているからです

学校でされる変なことに悲嘆し、
子どもが傷つくと一緒に傷つき、
それでも家庭内で対話が少なく、
近所づきあいも避け、
…それが、大切に大切に子どもを育てている一環なんだと思っているかもしれませんが、
子どもは言われたことではなく、見たことを参考に成長していくんです
人との関わり方や、対話の仕方を、
見たことがないならばその点は成長しません
だから、
工作でも、アナログゲームでも、我先に、と、自己主張ばかりして、
他者の存在を尊重できない子が増えてきたのかもしれない、と思いました

ただ、見たことがないんだ、と思うんです
日常で、誰かと対話する、誰かと関わって生きていく、という事例を
だから、対話の仕方を知らないだけなんだろう、って

自分を大切にされているのは知っている
だから、
自分は大切にされ、優先されるべき存在だ、と子どもながらに自覚している
だから、
他者も尊重して、とは子どもはなりません
だから、
誰よりも自分を尊重してくれ、と勘違いして育ってしまいます

言葉で教えても身につきません
態度と生き様で、日常的に見せるしかないんです

今週、教室通信に書いたばかりです

家庭で勉強させたり、習いごと行かせたり、動画見せたりしてる時間なんかないですよ

そんなことしても、絶対に賢くならないですよ

そんなことしても、自分の人生を楽しめる人間には育ちませんよ

昔のような適当で自由な学校生活も、
適当で自由な遊び場も望めないことが、
子どもにとってどれだけの不利な条件なのか、
親が真剣に考えるしかないですよ
子どもを育てるのは親で、
育て方は生き様を、人との関わり方を、自ら見せることです