もしかしたら、
地球上の生活の上でのエネルギー問題の中で、
最も重要なんじゃないか、っていうくらい、私には重要に思える子どもたちのエネルギー問題
少し一緒に考えてみていただけませんか

子どもたちが何人かいる場所で、
たとえば、学校とか園とか、公園とか、まあ、家庭内でも
そういう子どもが集まっている場所で子どもたちを見ていると、
ほぼ同じシチュエーションでも、
ずっと賑やかに元気よく活動している子もいれば、
ひとりで何やら集中して周囲を気にしない子もいて
また、なにかことが起こったときに、
ぎゃーぎゃー騒ぎ立てる子もいれば、傍観しているだけの子もいて、
また、何とかしようとあの手この手で対策を練る子もいて

子どもマニアの私は、
もしそんな光景を見たら、
あー、なんて面白いんだろう、とずっと見ちゃうと思うんですけど、
当事者の親となると少し見方が違ってくるでしょうか

まあ、結論として子どもにはそれぞれ特性があるので、
シュタイナー教育だと気質って言うんですけど、
それは、私のつかんでいるイメージでは、髪質とか、肌質とかとたいしてかわらないような、
そんなものかと
家族の中で、髪質や肌質は、遺伝的要因により、似通った性質を持っている者もいれば全く違った者もいるかと思います
たとえばきょうだいで、全体的になんとなく似ていても、体質はだいぶ違っている、というのもあるかと思います
気質もそんな感じで私はとらえています
つまり、
生まれ持った性質であり、それを自分とは違っているからとたとえ親であっても、それを正そうとしたり、変えようとしたりすることはできないし、する必要もないもの
でも、乾燥しがちな肌質や、オイリーな肌質に、それぞれ合う化粧水を見つけるように、扱いづらい髪質を年頃になって美容室で整えてもらうように、自分の気質を知って、大人になるにつれ、上手に付き合えるようになるもの
そんなものと私はとらえているのです

ところが、多くの親御さんは、たぶん、周囲の目を気にして、また、我が子かわいさ、大切さの裏返しで、子どもの特性を優先せず、ついつい、親の理想に近づける努力をしてしまいます
親の理想への近づけ方は、本当に様々で、一見、のびのび自由に育てているように見える場合でも、実は、子どもの特性を十分に守れていない、という育て方をしてしまっている場合もあります

なんでしょう、たとえば「自由にのびのび育てるのがいいことだ」という、とても素敵な言葉を鵜呑みにして、なんでもありの、自由度満点な幼少期、小学校期くらいを経て、中学生になったあたりでありゃ、まあ!という事態を招くケース

放任と、自由な環境で育つこととはちょっと違うと思うのですが、そのあたりの境目、節度がわかっていないケース

そして、よかれと思って何から何まで丁寧に教え、生まれて数年の見事な指示待ち人間を育て上げてしまうケース

なんでもありだよ~だいじょうぶだよ~と育てられた子は、自由でいいでしょう、と思いきや、生きていれば必ずぶちあたる、判断する、というところで迷ってしまう
迷って迷って、自分で選び、進んでいく力があるならいいのですが、迷うことにも力が要ります
迷うことが不安で、心がゆらゆらすることになります

なんでも教わってきた子は、自分の一挙手一投足、全て確認しながら歩みます
間違ったらどうしよう、そうじゃないよ!って注意されたらどうしよう、
これもまた、心がゆらゆらすることになります

子どもが心をゆらゆらさせるとき、成長は止まってしまう気がします
首の据わっていない赤ちゃんを、1人で椅子に座らせようとするような
そんな残酷な光景さえ浮かびます

私は、
そんなとき、なんのために親(またはそれに準ずる存在)がいるのか?と伝えます
親は、判断を見せるためにいる
これはよい、これはよくない、という判断を見せるために
言葉で教えるだけじゃなく、自分自身もそう生きるということ
そして、子どもだから失敗するのは当たり前だから、という覚悟を持つこと
失敗しても、失敗しても、許し、やり直し、いつかクリアできる日を楽しみに待つこと

子育ては、それだけでいいのに、随分と複雑に考える方がいるようだ、と感じることが多いです
子どもは昔からちっとも変わっていないのに、変わってしまったのは大人の方の方です
大人が、子どもの判断力を守り育てることを放棄し、その上、失敗したら許さない、
そうやって、エネルギー不足の子どもがどんどん増えています

ちょっと転んだだけで永遠に泣いている
2㎜の虫で大パニック
ゲームに負けてまるで奈落の底へ

もったいないな~と思います
子どもはもっとエネルギッシュな生き物です
大人なんかよりずっと逞しくて、かっこいい

エネルギーが足りないのは、本人のせいじゃないんです
エネルギーを奪ってしまっているのは、大人なんです

どうしたらこのことが伝わるのかなあ…と長年考え続けています
最近、
ある結論に辿り着きました
大人もエネルギー不足なんですね
大人も、何かにエネルギーを奪われてしまっている

そんなことを考えていたら、ブログを書けなくなってしまいました

私の下の子どもは中学生ですが、
中学校生活の大きな位置を占めていた部活動の、
ほとんどの行事が中止となり、
練習もままならない状況
試合や練習があったはずの週末に家の中でごろごろ…
学校からのお便りには
「何のために部活動が休みになっているのかよく考えて行動を」とあります
友達と遊びに行ったり、どこかへ出かけてはいけない、というメッセージだと思います

来春には修学旅行の予定もあります
「どうせ中止だよ…」
子どもは言います
そう、去年も中止になりました
でも、今年は違う
去年の例もあるし、先生たち、エライ人たちに考える時間はたっぷりあった
予算だって使えないまま残っているはずです
「だから大丈夫だよ」と私は言いました
こんなに時間があって、もし県を超えての移動ができないのなら、
県内の観光地でいくらでも修学旅行ができる
先生たちはきっと、子どもたちのために全力で考えて実践してくれる
私は祈りを込めて、子どもにそう話しています

でも、実際はどうでしょう
「延期」「中止」となると、主催者側としては、
気持ちは残念ですが、実は、業務は楽になります
私も、毎年おこなっていたスキースクールが今年は開催できないため、
今頃寝る間もないほどあれこれ準備していた時期なのに、
少なくともその業務はゼロになっています

子どもに関する行事を延期、中止にした代わりに、
大人たちは、子どもたちのために、心に穴が空いている子どもたちのために、
なにか本気で考えようとしてくれているでしょうか

そのことを考えていると、
そういう大人たちにも、エネルギーが足りないんだなあ…とため息が出ます
直接、尋ねたこともありました
そうすると、ほとんどのエライ人たちは、眉間にしわを寄せて、とっても気の毒そうな表情をマスクの上に浮かべて、「こんな情勢ですから…」と言うのです

大人がそんな顔をしていたら、
子どもはどんどん、エネルギーを失うでしょう
子どもから行事や楽しみややりがいを奪って、
その穴埋めもしない代償は、いつか、大人が被ることになるでしょう


結局この結論に辿り着いてしまう
こうして毎回、ブログを書いては消していました
でも、
今日は消さずにアップロードしようと思います

子どものエネルギー不足は、大人の責任です
子どものエネルギーのキャパシティを構築できるのは、
12歳までという私の体感、糸山先生の理論と併せてそう断定できます

どんぐりはすごくエネルギーの要る問題ですよね、と言われたことがあります
私は、数え切れないほどたくさんの子どもたちがどんぐり問題を解くのを見ています
確かにエネルギーを要するかもしれません
でも、何を動かすにもエネルギーは要ります
子どもがエネルギーを消費しているとき、喜ばしく消費しているのか、いやいや消費させられているのかは、全く違った状態です
どんぐり問題を解くには、確かに大量のエネルギーを要するかもしれません
何か、別のことでエネルギーを使い果たした子どもは、前向きに取り組めないかもしれません
どんぐりになんかエネルギーは使わない、と脳が決めているような子は、解けないと思います
エネルギー不足はどんぐりのせいではないのに、
どんぐりはエネルギーを要する、だから、よほどでないと取り組めない、と言われても、
そうですか~~としか言えません
だって、目の前にいるのですから
生き生きとどんぐりにエネルギーを注ぐ子どもたちが

でも、1問を10分ほどで解いて、さっさとノートを閉じる子もいれば、
1問を40分かけて解いて、時計を見て、「あと10分ある、もいっこできるかな!」と問題をまさぐる子もいます

エネルギーキャパの差を感じるわあ~と思うのです

エネルギー量が少ない子は、省エネ運転をします
全力を出しません
雑で、適当で、大雑把で、スピード重視
それでも生きられます
でも、楽しめない

人生を楽しむ人間に育てるために
私たち大人が、子どものエネルギー量を無限大の容量にしてあげられたら

一緒に暮らす間だけ、両手を広げると飛びこんでくる間だけ、
私たちにはそのチャンスがあります