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てっぺんに はんぺんが ついている おでんのくしを30ぽん かいました。まいにち 5ほんずつ たべるとすると なんにちで たべおえることが できますか。
(群馬で生まれ育った私は、おでんが串にささっているのを一度も見たことがないのですが、漫画かなんかで見たことがあるのか、私が最初に解いた時もこの子と同じように、蒟蒻とか卵とか、はんぺんとかを串にさしてある絵を30本描いた覚えがあります
みなさんの地域では、おでんは串にささっているのですか?)
さて、そんなわけで、
「おでんの串ってなに」と不機嫌そうに聞き返されたこと、多数
「30本も描けないよ」と半べそをかかれたこと、多数
この問題だけにまつわるこれまでの子どもたちの表情を思い出しても、かなりの苦情を受けたなあ、という思い出があります
でも、この子(小学校2年生)は、そのように聞き返してこなかったので、「おでんの串」を知っていたのか、それとも「おでん」と「串」は知っているから、その知っている「串」に知っている「おでん」をさした絵を、ちゃんとはんぺんをてっぺんにして描いた、というだけなのか
(はんぺんは三角と思い込んでいたけど、子どもによっては四角かったり丸かったりするのも面白いです)
それで、じーっと当たり前のように30本近くのおでんの串を書き上げて、1日目は終わりました
翌週、「こないだの続き描くね」といって、30本になるまで描き上げてから、続きを自分で読んで、毎日5本ずつ食べると6日で終わる、という答えを導き出しました
おでんのささっているてっぺんをよく見ると、串が少し、突き出ています
こういう細かいところを見ると、この子が、おでんの串刺しは知らなくても、お団子の串刺しや焼き鳥は食べたことがあるんだろうし、「串ってなあに」とも聞かれなかったので、家族の会話の中で、自然と、お団子や焼き鳥が刺さっているあの棒のことを「串」というんだ、という認識も当たり前に持っていたのだと考えられます
「これは串というものなんですよ」なんて教え込まれた訳ではなく、いろいろなものの名前を、当たり前に会話の中で覚えているのでしょう
深読みが過ぎるかもしれないけど、低学年のこういう語彙力は経験とともにあるはずで、それが備わっている子は心配ないなあ、と思うのです
そうですよね
別に、30÷5=6で秒で答えが出ますよね
でも、まあ、割り算をまだ知らないのでね
あ、ちなみに、通分を知らない低学年も、分数計算をします
どんぐりでは、絵を描いてね
「おでんの串なんて知らない」とまず苦情を言う子には、私はどうしているかというと、「おでんの串?おでんが串にささってるってことでしょう」と言います
「おでんって何」「串って何」と聞く子もいないこともないのですが、実際には本当に知らないのではなく、知らない、と言いたいだけなんだと発覚することも多いです(笑)
自分は絵が描けないのではない、考える力がないわけでもない、問題の言葉の意味がわからないだけで、問題が悪いのだ、と言わんばかりの
怖い顔して苦情を言われても「どうやらおでんが串にささっているらしいんだよね」と淡々と答えます
「30本も描けない」とまず苦情を言う子には、私はどうしているかというと、「あら、そう、それなら描けるとこまで描いてあとで続きを描けば」と淡々と優しく答えます
実際にはどう頑張っても30本も描けない!なんていう状況はありません
手を怪我しているのか、トイレを我慢しているのか、その他、やむを得ない状況があるわけではないのなら、1本ずつ描き出せばいつかは30本描き終えます
こちらもただ、「30本も描けない」と言いたいだけなのでしょう
このような対応をしていると、
「しょうがないなあ…」という感じで自分の苦情を取り下げる子がほとんどです
初動が大事なんじゃないかな、って私は思ってます
「え、わかんないの?ほら、これだよ」とネット検索して本物のおでんの串刺しを見せる方法もあるかもしれません
でも、それを一生やってあげるの?と立ち止まってほしいのです
「そうだよね、30本も描くなんて大変だよね」と手伝ってあげる方法もあるかもしれません
「大変だね、頑張ってるね」と励ます方法もあるかもしれません
でも、本当に描けないわけじゃないことを、大人はわかっていないといけません
描けるのに描かないだけなんです
同情の余地はありません(笑)そんなことで甘やかしてはいけません(笑)
ちなみに、こういう問題を経験して、そのうち、72000人とか、300億円とか数値はどんどん(調子に乗って)大きくなっていくのですが、「30本も描けないよ」と苦情を言い続ける子は、たぶん、数値が大きくなればなるほど苦情の声を大きくして不機嫌な顔をもっと不機嫌にする以外の知恵を絞れないままかと思います
面倒でも全部描く、という経験を、腹をくくってしっかりと実践した子から、自分で工夫する、という知恵を授かるのです(それが思考力です)
やはりここでも、大人の毅然とした態度が重要です
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5分で3枚の巨大カードを作ることができるカード製造機があります。できたカードは順番に積み重ねます。カードの厚さは10mmです。この機械は、積み重ねたカードの厚さが15cmになると自動的に止まってしまいます。では、11時45分から機械を動かし始めると、何時何分に機械は自動的に止まるでしょう。
「カードは順番に積み重ねます」「積み重ねたカードの厚さが…」と、「積み重ねる」と文中に2回も描いてありますが、このような「積み重なっているカード」の絵を描く子は案外少ないです
積み重ねずに、数値を正確に書き足していって解けてしまう子もいて、特に「このように積み重ねた絵を描くべし」と私から言うことはないのですが、ある時、突然、「積み重ねる」絵を描くようになる子もいます
積み重ねた絵を描いた方が断然楽なのに、平面にカードをひたすら並べていって考えている子は時間もかかります
でも、時間がかかりすぎるなあ、とか、数値がずれちゃったなあ、とかいう失敗を繰り返して、この子も「積み重ねる」絵を描くようになったひとりです
最初の問題と同じで、数式で一瞬で解けてしまうのですが、
そんなことを小学生の間にいくら教え込んでも、練習させても、中学以降の学習への礎にはならない、と私は確信しています
迷ったり、間違えたり、失敗したり、試したり…
そんなことを自由に繰り返すことが許されて、ほどよく救いの手が「出て来ない」場合、
子どもはある時ぐんと伸びます
何があっても全然助けない、一切手出しも口出しも、助言もしない、ということが良いというわけではありません
まずは子どもがどうするのか、観察します
そして、その年齢なりの子どもが、その年齢なりの精一杯をやっていることを、大人は理解する必要があります
でもこれは、私が年長さんから中3までを毎日見続けてきたから
卒業して高校生や大学生、社会人になっていく教え子を見続けているから
もうすぐ成人しそうな我が子を間近で見てきたから
だから、体感して、自然とできるからなのかもしれません
私だって失敗を重ね、迷い、戸惑い、困り、悩み…その時その時、リカバーしてきました
いつも答えを教えてくれるのは子どもの方でした
私が正しかったことなど、ほとんどありません
神様がやりなおさせてくれるなら、やりなおしたいこともたくさんあります
子どもに(特に我が子に)申し訳ない、という気持ちで胸が苦しくなる思い出もたくさんあります
でも、子どもは私にそれを教えるために私の元に来てくれたんだ、と思っています
未熟な母親が少しずつ成長するために、
自らも傷つきながらも、一緒に成長して、大人になってくれた
間違ったこともたくさんしてきたけど、
私が最初からブレなかったのは、
「この子が育つのを邪魔してはいけない」という教訓のおかげでした
最初の子が産まれた直後に聞こえたその教訓が、ずっと頭を離れませんでした
自分が間違えた方向に行動をとると、その声が脳内で響きました
そのたび軌道修正し、子どもとむき直しました
我が子は、自分の力で自分の道を切り開き、自分の人生を楽しめる人間に成長している、と思えます
もっと私が手を出していたら、
もっと強く親としての主張を押しつけていたら…
考えるだけでゾッとします
だって、そのままずっと、手を出し続けることはできないのです
手を伸ばしても届かないところに、少しずつ歩んでいく子どもたちに、
ずっと保護者が付き添って守ってやることはできないし、
いつかできなくなる時は必ず来るのです
話が大きくなりすぎましたが、
おでんの串を30本、なんてことなく描くかどうか
カードが重なる絵をいつから描くのか
どんぐりを解く姿を見ていても、その子の特徴が見えるし、また、
成長度合いも見えます
ちゃんと描かせよう、と努力する必要はありません
自ら嫌がらずに描くような「くらし」をするだけです
助けすぎず、
甘やかしすぎず、
でも、安心させ、冒険ができる、失敗ができる環境を守り、
情緒を安定させるだけです
親にできるのは、それだけです
そして、そんな思考経験ができるどんぐり問題は、本当によくできている!と思います
作ってくれた糸山先生には毎日感謝の気持ちが溢れます