折しも学校配布のタブレット端末問題についての相談を数件受けている矢先にこの特集記事

意欲や能力 高める可能性

はい、そうです
「可能性」です
みんなこの「可能性」を信じているのか
それとも、特に何も考えていないのか

どちらかというと後者の方が多いかな
と見える昨今

可能性ですから、
意欲や能力 低める可能性
もあるわけです



上記の相談のうち、いくつかは、「学校がタブレット使用を推奨し、なんなら強制してくる」というもの

たとえば学校の植物を観察するために、タブレットを使用するのは以前から聞いていました
授業中に自分のタブレットで写真を撮り、それを家に持ち帰って細かに観察し、気づいたことを書いたり、イラストを描いたりするレポートの宿題が出ることも
タブレット持ち帰りを拒否しているどんぐり家庭の多くがこの問題にぶち当たります
「家に持ち帰ってやってこないと、学校でやってもらうことになり、そうなると昼休みなどを使うことになります」と、昼休み強奪の脅迫が始まることもよくある話
そもそも宿題制限に抵抗のある教員がまだまだ多いので、個別に「持ち帰りません」なんて言われることを根に持っている可能性もあります
要するに、「みんな同じ」じゃないと面倒くさいのです
そんなことはない、と思いたいけど、随所の発言からそう思わざるを得ず…

その、担任との対話の中で、保護者は聞いてみました
「タブレットがなかった頃は、どうやって観察していたんですか?」

担任は答えました
「実際の植物の周囲でみんなで観察していました」

それを、
“大変なことだった” と言われたそう

みんなでひとつのものを観察して、その場で絵を描き、気づいたことをメモする
私たちの時代からよくやっていた理科の授業あるあるです
そうか、大変だったんだ
先生には大変だったんだね
だからタブレットがあってよかったんだね
それぞれが、自分のペースで自分の端末の中の植物を観察して、ゆっくり気づいたことを書けばいい
隣でやいのやいの言ってる子もいない
隣の子の絵を見てはっとすることもない
そんなの要らない
だっていちいち大変だもの
自分とだけ、自分の端末とだけ向き合えばいい
自分の机でも、自分の家ででもね
それでこそ「観察」はうまくいく

…のか????

これからますます問題は多様化するはず
ほとんどが「大人の事情」で展開されていくはず
だって、
そもそも「便利」のために「簡便化」のために改良(?)されていくのだから
学校での煩わしい集団行動も、どんどん個別最適化されていく
聞こえがいいその言葉に、勘違いがかぶさっていくのです

学校の意味は?
人と人とが関わっていろんなことが起こる最初の経験の場、
学校
そこで、人との関わりから逃し、個別に最適に学べるように工夫することが、
煩わしさからの脱出だと解釈している現場の人たちがいる

みんなで観察するのでは後ろの子が見えないよ
もっとあっちへ行ってよ
描けた人は下がってよ
順番に描こうよ
そんなやりとりも「無駄」で「煩わしい」と判断されるのかもしれない
言いたいことも言えない子がかわいそうでしょう、と大人が先手をうつのかもしれない
でも、
そういうところに学びがあるのではないの?経験があるのではないの?
子どもの頃、軽く意見を言い合えたことが、
大人になるにつれ、控えめになっていく
控えめにならない人もいるけど、なんとなくみんな、子ども時代の衝突の経験、苦い思い出などがよぎり、少しずつ学習して人付き合いが上手にできるように成長していく
言いたいことを言える子が、言えない子の表情にハッとしたりして気づくこともある
そんなのの初歩を学ぶ場が学校なのではないの?

いえいえ、理科の授業ですから
理科の授業では理科を学ぶんですから

そうではありません
学ぶことが目的なら、残念だけど、学習教材は学校の授業内容より優れたものが巷には溢れかえっています
学校の存在価値は、担任教師の存在意義は、そんなところにありません
それに気づいていないと、先生達の日々だってとても空虚なものになってしまうでしょう
「学校より塾の方がわかりやすい」と、多くの中学生が言っているし、
「○○タッチ(タブレット通信講座)でその実験は見たよ!最後こうなるんだよ!」と小学生も言っています
それでもまだ、
学校で学ぶことについて、簡便化して、より個々の能力を高めよう、って目標を掲げる必要があるんでしょうか

さあ、学校がどうなるか、学校の先生達がどうするかは家庭とは関係ありません
家庭はどうしていたらいいのか
相談を受ける度に考えるのです
そして、私の中では、結論は出ています

問題は、テレビやゲーム、スマホやタブレットそのものにはありません

これは、親子に課されたミッションなんです

「意欲や能力、高める可能性」と表題にもあるとおり、アナログ学習と並行して上手に使いこなし、節度ある使い方をすることができる子もないことはないでしょう

実際、国内最高峰の大学の学生が、子ども時代、ゲームやスマホを自由に使っていた率は低くないそうです

だから使っても問題ない、というのは短絡的
そこが、親子へのミッションのひとつです
親がそういう偏った情報に振り回されちゃいないか、っていう最初のミッションです
最高峰の大学へ進学したら勝ちってわけではないし
勉強ができるようになることが子育て、教育の目標になっちゃいないか?
それはとても危険なことだよ、っていう

親子の信頼関係や、親の言葉の重みはどうだろうか
親との約束を、脅さずとも威嚇せずとも子どもが自主的に守る家風が成り立っているだろうか

かるた、塗り絵、クイズ、計算ができる野球ゲームなど、子どもが自らのめりこむアプリだそうで、「就学前に慣れるのはいい。でも、使いすぎに注意したい」などとコメントしている保護者
「塗り絵は紙のものと違って、すぐに塗り直せるので間違っても大丈夫」とコメントする子ども
そしてこの記事の最後には、
タブレットで出会ったいろいろなものに実際に出会わせるような体験も並行してほしい、というようなことが書いてある

まるで逆のことが、書いてあるんです

出向く必要もなく、暑くも寒くもなく、痛くも痒くもなく、手も足も汚れず、端末内で出会えるのに?
みんなでひしめきあって観察したりわいわい言いながらレポートを書くのではなく、ぱしゃりと写真を撮ったら自宅に帰ってひとりでその画面を見ながら観察記を書けばいいと、学校が推奨しているのに?

これは親へのミッションなんです

それでいいのだ、って本気で思うならそうすればいい
でも、
多くの子が、間違いなく思考力も感性も失うでしょう
あの子が大丈夫だからうちの子も大丈夫、なんて保障はどこにもなくて、学校が推奨するから正しいんだ、ってことももう、全然、なくて
だって数年前は学校でのタブレット管理は厳重で、絶対に家になど持ち帰らせなかったのに
そういう学校だっていま、あるのに
その差はなんなの?っていう
なんで数年前まで学校の先生達は「デジタル端末は危険。買い与えないで。使わせないで、」と言っていたのに、今は、学校から配布して、連絡帳も宿題も観察もタブレットありきだなんて
この豹変ぶりに「変だな」と思わないのが、国民性といえば国民性なのですが……

やがて意欲や能力を低められた子どもたちが中高生になると今度はその子自身の責任を問われています
どうしてやる気になれないの?
どうして自主性がないの?
どうして持続しないの?集中できないの?

…そりゃあ、だって、楽しくないからですよ
考えることが楽しくないから
考えようとしても、不自由に固まってしまった脳では動かない、だから、考えようとしても苦しいからなのですよ

意欲や能力を高める「可能性」がある、というなら、低める「可能性」についてもしっかりと同様の特集を同様の分量で書くべきです

そうじゃないと、ますます親たちは混乱しますよね

ああ、いいものなんだ
高めるものなんだ、と

そんなことはない
むしろ、危険がいっぱいなんです

みんながやってるから
みんなが持ってるから

と言われると、面倒くさいから買い与えてしまう、許してしまう

それは、
家庭でも学校でも同じで、大人がそうしてしまっているわけで

大人がそうしてしまっておいて、
後になって子どもの責任を問うなんて、
いつもいつも同じ結論になって申し訳ないけど、
それがどうしても、子どもマニアとしては許せないのです

ま、しょうがないな、って全部を受けとめる親であったら違うのかもしれません

ゲームやタブレットを通して、親子関係があぶり出されたときに、
あれっ
大丈夫かな
って親子関係を見返すきっかけをもらったのだと気づける親であったら

それならそれでいいんじゃないかな、って思うんです
それが、親子に課されたミッションである、ということ
みんながどうこう、学校がどうこうじゃなく、
親子の問題を解決すべし、親子の絆を強化すべし、というミッションなんです