ちょうど4年前に行った谷川トレッキング
ちょうど今頃が最高なんです
これ、なんだかわかりますか?
雪です
雪渓です
雪渓の上を、どんぐり学舎の子どもたちが走り回っています
高崎駅から電車に乗って行きました
日本一のもぐら駅、土合駅で降りて、一の倉沢の雪渓を目指しました
この季節になると、
毎年、「子どもたちを連れていきたい…」という思いに駆られます
真夏でも残っているこの雪渓の上を、走らせてあげたい
ただ、真夏は登山者で溢れます
この新緑の季節がいいんです
山開き前で、登山には早く、雪渓で山スキーをする人もまだいます
雪解け水がざーざーしてて、賑やかに、生き物たちも動き出す、この季節が最高なんです

群馬には、こんなところがあちこちにあります

さて、最近園児さんや小学校低学年の保護者の方から、こんな質問を受けました
「子どもが○○教室に見学に行ったら、入りたいと言っています。やらせてもいいでしょうか」
この○○教室には、スポーツ系、芸術系、知育系…いろいろな教室の名前が入ります
あちこちからこのような質問が届くのです

どんぐりを学んでいる親御さんには知られた話
糸山先生は「習い事は1つだけ。自分の小遣いを使ってでも行きたいものだけ。」という伝え方をしています
糸山先生の言葉をどのように捉えるかはその個人によるのだなあ、と感じることは多いのですが、私の読解では、この言葉には、「親が主導しない」ということと「親の家計の外」ということが書かれているように見えます
「親が主導しない」ということは、親がその習い事をどうしてもさせたいとか、子どもを誘導してでも好きにさせたいとかいうエゴがない、という意味ではないでしょうか
そして
子どもが自分の小遣いで習う、つまり「親の家計の外」ということは、親は、その習い事に適度に無関心であり、無関係であることを象徴しています

そういうスタンスであれば、習い事をするならすればいいんじゃないでしょうか、という程度のアドバイスだと思います
つまり、習い事は必要不可欠ではないし、親が主導したり、決定したりするものではないということです

巷には、「習い事はこれさえやっておけば将来○○の力がつきます」というような宣伝文句とともに、魅力的な習い事の紹介記事が溢れています
どうみても保護者への宣伝ですから、習い事を見つけてくるのも、体験レッスンに連れて行くのも、親が主導であることがほとんどでしょう
小学校中学年くらいになってくると、お友だちがやっている習い事をうらやましがってやりたがることもあります

「子どもがやりたい、って言うんですけど」に対する、
私のひとつ目の意見は、
「やりたいならやらせてみればいいんじゃない?」です
子どもが「やりたい」と言い出したもの全てを、やらせてみたらどうなるか、やってみればいいんじゃない?ということです
でもそれは、子どもが「食べたい」というもの全てを食べさせることと、子どもが「買いたい」というもの全てを買い与えることとなにが違うのか考えてみてからにしてね、と言います
家計はどうですか
時間のやりくりは、送迎はどうですか

ふたつ目の意見は、
「習い事はないに越したことはない」です
もちろん、子どもが中学年を過ぎ、自分の小遣いの管理をしっかりとできるようになり、この小遣いをレッスン料に充てる、と言い出したら、どんぐり倶楽部のスタンスに倣い、やってみてもいいかもしれません

でも、
習い事をさせる親御さんの多くが、
習い事ではない、教えごとではない大事なことを、
親子の間で、家庭内でしっかりと体得させていないことが多々あります
大げさに言えば、自分でご飯を食べることができない乳児をテーブルマナー講習会に連れて行くような、
まだ歩けない幼児を陸上教室に入れるような、
そんなことが見受けられます

これは、保育園に預けている時も感じました
保育園は家庭の延長で、保育士は親の代わりだ、と思う方もいるかもしれません
でも、
朝、保育園に親御さんが置いていく子どもの中には
夜から1度も替えていないおむつをしたままの子も少なくなく、
朝食を摂ってこない子など珍しくもない、という話をよく聞きます
私が子どもを迎えに夕方、保育園に行ったとき、
同じように親が迎えに来た子が親のところで排泄してしまいました
その親は「ちょっと、先生!」と先生に片付けさせていました

こんな話は大げさすぎるかもしれません
でも、親ってなんなんでしょう
保育園や幼稚園、学校、習い事など、こどもにとってそれらは家庭の後付けに過ぎません
家庭あってのそれらです

学校間格差があるから、この学校よりあの学校に行った方が成績が伸びる、とか、
あの先生よりこの先生の方がいい学校に進学できる、とか、
自分の家庭も顧みず、後付けのそれらの評価をし、
しまいには、塾に関しても「あの塾は伸びる」「あの塾はいまダメみたい」と噂する

どこまで他力本願なのでしょう

私が30年近く見続けてきた子どもたちにはいろいろな子がいました
私も「習い事」の主催者の1人です
どんぐりに関しては、家庭ですべきもの、家庭でできるものですから、
この教室でしていることなどほんのきっかけに過ぎません
どんぐり学舎の保護者たちは、ここに通わせているばっかりに、家庭でちゃんとやってるかい!?っていちいち私に言われています(笑)こんな面倒くさい教室に普通、子どもを預けようと思いませんよね
お預かりしたら、家庭でなにをしていてもしていなくても、退塾されないようにお客様のようにその子と親を大事に扱うのが一般の塾ですから
だから、どんぐり学舎の保護者たちはすごいんです

それでも、
なんだか、この教室に通わせることだけでなんとかなるんじゃないか、と勘違いしている方がいないとも言えません
教室でのことはなにも問題ありません
みんな教室で成長しています
なによりも、ここで得る一番大切なものは「仲間」です
でも、その成長、進化の根幹となるのは、やはり家庭生活なのです
「仲間」を必要としない子もいます
他者を大切にする心、尊重する心が育っていないのでしょう


逆にいえば、
家庭生活がしっかりとしていれば、どんな習い事をしようと悪影響はないのではないでしょうか
では、「家庭生活がしっかりとしている」ってどんな状態なんでしょうか

それで、話は最初に戻ります
「習い事は1つだけ。自分の小遣いを使ってでも行きたいものだけ。」というどんぐり理論です

スポーツ系の習い事の相談が最も多いかもしれません
その時も、私は同じことを言います
「小さい頃からやっていた方がいい」と多くの人は言います
プロ選手やオリンピック選手など、有名な成功したアスリートが何歳から始めたのか見ると、
幼い頃からやっていた人が多いので、それが参考資料なのでしょう
その人の歴史に「たられば」は通用しませんが、では、
その選手が、もし、3歳からではなく、10歳から始めたのだったら、
成功はしなかったのでしょうか
私には、何歳から始めても、その人はそこまで登り詰めたと思えます
皆に知られるほどまでに成功する人なんて、ほんの一握りであり、まるで凡人とは違う人です
恵まれた体格、そして努力の量や、センスも比較にならないほどのすごい人たちなのです
でも、
誰にも検証できません
今後も、絶対に試してみることができませんから、エビデンスがとれません

世の中に溢れ、有名になるエピソードは成功者のものがほとんどなので、
みなその結果と状態に憧れ、参考にしようとします
でも、そもそも、人には個人差があり、いくら手法を真似ても同じようになる可能性は低いのです

それどころか、
小さい頃からスポーツ系の習い事をさせることで世界的に問題になっているのは、
「親の熱中具合」なのだそうです
たとえばサッカーの試合などで、
ヨーロッパでは得点表を保護者に見えないようにするなど工夫されているようです
親が子どものプレイに対して大声を出し、帰りの車の中でダメ出しをすることを禁じているところもあるそうです

それくらい、子どもがするスポーツに関して親が直接的に関わることによって子どもの成長に弊害が出てきているということだと思います
親が、子どもの出来映えについて大声を出したりダメ出しをしている、という状態が危険である、ということです

その危険な状態はまさに、「親が適度に無関心で無関係である」こととはかけ離れています

コーチの厳しい指導は時々問題になっても、
親の厳しい指導は往々にして家庭内で行われることが多いので、なかなか表に出ることがありません

それでも、
小さい頃からスポーツをやらせるとしても、
適度に無関心で無関係でいられるなら弊害は少ないかと思います

でも、それがとても難しいことは、「得点表を隠す」しか対処法がなかったサッカー大国のとった手段を見てもわかります
日本の親だけではないのです

最近出版された武田信子先生の本を読むと、

なぜ親たちがそんなに入れ込んでしまうのか、そのメカニズムがよくわかります

残念ながら、それは「自然遊び」などでも顕著です
私はほぼ無料で「自然遊び」の企画をしてきました
なぜそれが必要なのか、親御さんたちのほとんどは理解しています
「自然遊び」を通して劇的に変わっていった子も何人もいます
でも、最後まで、親御さんが一緒に楽しめない、というケースはありました
子どもを楽しませるために参加させる、自分は関係ない、というような

親が一緒のイベントの場合、
子どもが本当に幸せな笑顔を見せるときはどんなときか、
それは、親が本気で楽しんでいるときです

親御さんが一緒だと萎縮したままの子もいました
親御さんがまるで監視するようにその子を見ているからかもしれません
でも、もし、親御さんが本気で自分で楽しんでしまったら
その子は解放されるでしょうね
そして、最後には親子で一緒になって楽しめているでしょう
そんな光景も何度も見てきました
そんなのを見た日は泣いちゃいました

谷川岳は私の思い出の土地です
小学校の頃、毎年キャンプに行っていました

親は一緒ではなく、20代の若者がリーダーで、大学生、高校生、中学生と小学生が参加者でした
中学生以上は運営側に携わります

毎年5月に参加者を募集し、勝手に班編制されます
友達と一緒にエントリーしても必ずバラバラにされます
初対面のメンバーと班員になり、3ヶ月間、小キャンプなどを重ねて本番に備えます

親たちにもキャンプの概要は知らされました
運営側の若者たちと、親の役員たちは会議を重ねます

私の母親も役員でしたので、何度も会議に参加していました
親だけで、キャンプ地に下見に出かけたこともあったそうです
高崎駅から電車に乗って、土合駅から歩いて…
危険箇所の写真など撮って、親としての意見などまとめて会議に参加すると、
全て若者たちに却下されたそうです
「危険箇所は子どもたちが自分で見つけます」
「事前に知らせておく必要などない」

親たちと若者たちは何度も口論のように子育て論を交わしたそうです
若者たちは、自分たちでも議論を重ね、どうしたら小学生たちと4日間過ごせるか、そして、募集から3ヶ月間でどこまで成長できるか、本気で考えてくれていたのだと思います
参加するだけの私には当時はわかりませんでしたが

ここまで書いて、この話は以前にも書いたな、と思い出したのでもうやめます(笑)

当時の若者たちが、親たちに言ったこと、
そして、親たちは当たり前のように、自分たちの家庭内での責任を負っていたこと、
当時の話を聞くと、今とは全く違う社会背景を感じます

キャンプ場で怪我をしても、誰も若者たちを訴えません
4日間、お風呂も入りませんが、誰も文句を言いません
今の親たち、子どもたちならなんと言うでしょうか

DSS(どんぐり・しぜん・すくーる)の究極の目標は、
そのキャンプの再現でした

でも、様々な自然遊びの活動を通して、それがとても難しいことがわかりました

みんな、誰かのせいにしたがる
それは、子育てが他力本願になって久しい現代社会の常識なのかもしれません

キャンプは流行しているけれど、子どもにとっては上げ膳据え膳
それでは家にいるのと変わりません

習い事?
誰かに習う必要なんてないのです

基本は全て、家庭でできること
私はそうしてきました
何のスポーツをしても楽しめるような体力と、身体能力、
何を読んでも書いても楽しめるような知力を、
家庭内で大切に育ててきたつもりです

その基盤の上に、他者との出会い、影響があって、今があります

誰かにつけてもらう力ではないんです
ついていない力を、誰かのせいにするものでも、ないのです