0mx20
きょうは くじらの うんどうかいの ひです。しんたろうくんの くじらも でます。あかいくじらと しろいくじらに わかれて きょうそうします。あかいくじらが しろいくじらより 3びきおおいので みんなで くじらは 19ひきいます。 では、あかいくじらは なんびきいるのでしょう。

まずは運動会の絵を描いて、楽しそうにくじらたちを描きました
よみきかせ式の1年生です
「描けたよ、読んで~」と言われたら続きを読みます
一通り読み終えたところで、ぱっと見、くじらは40頭近く描かれているようでした

“19ひきいます、に引っ張られて、赤も白も19ずつ描いたのかな”

なんとなく、私はお宝になるであろう、添削の段階を想像していました

ところが、いつまでたってもこの子は添削に持ってきません
私は他の子も見ているので、その子だけをずっと見守っているわけではありません
でも、
たどたどしく問題文を、今度は自分自身で追いながら、
「なにか違う」という自分の勘を確かめるかのように、くじらに×をつけたり、白クジラを青でなぞってみたり、ブツブツ言いながら一生懸命直していました

「どうしよう、絵を間違っちゃったよ」と私に訴えてきたので、
「何度だって描き直していいんだよ」と言いました
「どうしたらいい?」と聞くので、
「次のページの真っ白のとこに、最初から描いていいんだよ」というと、
クリップで仮止めしてある問題を取り外してページをめくり、新しいページにまたクジラを描き始めました

運動会の絵はもう描いたので、今度は「考える、数えるための絵」から描いています

「いち、にぃ、さん、し…」と何度も、何度も数えている声が聞こえました

しばらくして、私のところに持ってきたクロッキー帳には、この絵(上記画像)が描いてありました

なんと、正確に答えが見える絵になっています

あまりに時間をかけて解いていたのと、
最初に描いたたくさんのクジラの状態を思い出すと、
この完成度はなんなんだ、としばらくあっけにとられて絵を眺めていました

(添削をしながらクジラに番号を振ったのはわたしです)

まだ1年生です
言葉は知っていても、流暢に自分の考えを説明するには幼いです
でも、あっけにとられている私の目をじっと見つめて、
この子は、自分がどんな考えでこの絵を描いたのか、説明をはじめました

「3びき多いってことはね、それはこっちにおいといて~(数歩、横に動いて、ジェスチャーで3頭のくじらを横に移動させるような説明)あとの赤いクジラと、白いクジラは、おんなじだけいるってことでしょう?だから、順番に数えたの。全部で19ひきになるように、いち、にぃ、さん…って数えて、こうやってかいたの」

うん、うん

「そうするとね、ここから、いーち、にーい…(ここで、私は声を聞き取って番号を振りました)ってね、まず4と4でしょ…」

うん、うん

3頭取り除いた残りのクジラを、半分にすれば8頭ずつ、と見えているのですが、この子は慎重に、4頭ずつ数えていったようです

「次に、2と2でしょ、それで、最後も2と2でしょ、それで、おんなじだけにわけられたの」

そう、半分にする(割り算の考え方)はまだ習っていません
かけ算さえも

だから、
もしかしたらきょうだいでおやつや玩具を分け合う時のように、同じ数ずつ取り合って、最後まで同じずつとっていって、全体を半分に分ける、という方法をとったのかもしれません
いっぺんに半分に分けなければいけないルールはありません

「なるほど、だから、赤いくじらは…ここまでが8で、むこうにおいといたこの3を混ぜてかぞえて、きゅう、じゅう、じゅういち、となるわけか」とわたし

問題をのり付けしてスタンプを押しました

どんぐり問題を自分の方法で解いていく子どもたちを毎日見ていると、
いっせいに同じことを習い、練習し、同じ期間で習得しなければならない、という一般的な学校の指導法をどう捉えたらいいのだろう、と考えさせられることが多いです

指導案通り授業をして、計画通り単元テストを終わらせ、成績評価をつけなくてはならない先生

先生のつける評価で我が子を判断し、その評価を上げるために塾に入れたり、厳しく教え込んだりしてなんとか「みんなと同じ」レベルには最低でも…と望んでしまう保護者の方

子どもがこうして、誰にも解き方を教わらず、自分で何度も試行錯誤して、描き直して、時間をかけて、本当に解いてしまう、という姿を毎日見ている私には、そんなことはどうでもいいじゃないか、と思えます

みんなと同時じゃなくていいじゃないか、と

言葉を耳から聞き取って理解するのに時間がかかる子や、
文字を追って文章を読むことが難しい子には、「みんなと同時」はとても苦しいでしょう

また、一度聞いたら大体覚えちゃう子や、
文章を読んだり書いたりするのが苦痛でない子には「みんなと同時」はとても退屈でまた、苦しいことでしょう

私の教室には、そのどちらのタイプのお子さんも存在しますが、どんぐりに関しては「みんなと同時」という要素がひとつもないので、その弊害はまったくないのです

ただ、競争心がすでに身についているお子さんでそれがあまりよくない傾向として出ている場合
それは、周囲の大人の意識の影響なんだろうなあ、と感じることはあります

いつまでたっても低学年問題を解いているな…
いつまでたってもお宝行きばかりだな…
と、保護者の方が思っている場合、その気持ちは子どもにも伝わっているかもしれません

どんぐりをやっていてもまだ、
せめて「みんなと同時」には…と望んでいる大人の方が、いないわけではないのですね

どんぐり問題を解いたら画像とともにみんなに紹介してくださいね、と以前、糸山先生が呼びかけたので、どんぐり実践者のブログやSNS等で他の子のどんぐり作品を見ることができます
どんぐり教室や、私の教室のこのブログやSNSも同じように、生徒たちの作品を紹介しています

それを見て、「うちの子は全然だわ…」と落ち込んでしまう方が少なくない、と聞いたこともあります

その心理を、どう捉えようか、私もそう打ち明けられる度に考えてきました
でも、やっぱりその裏には
「みんなと同時」がいい、という願望が、もしかしたら見え隠れしているんじゃないかな、と思うのです

どんぐりも、学校のテスト等の評価も「いま、この子はこういう状態」ということが見えているだけで、
それが「ダメですよ」「いいですよ」という判断ではありません

それを判断してどうするか決めるのは、本人以外の誰でもありません

ダメだからもっと頑張らせなくちゃ
と、保護者が躍起になることはありません
先生が追い立てることでもありません
だいたい、世間で起こる教育関連ということが無視できない悲しい事件の裏には、
子どもを追い立てる大人の野望や、強引な手法や、言動が実際にあることが多いではないですか

子どもが安心して迷えるように
子どもが安心して間違えることができるように
私はいつも笑って見守ります
どんなことを描いても、うっとり眺めています
うっとり眺めていると、子どもたちは私に説明をしたくなるみたいです
もし答えが間違っていても、
どうやって考えたのか、
絵図で残った思考過程を見たり、説明したくなった子の説明を聞いているだけで
ただマルバツをつけられることの数倍も学んでいるなあ、とわかります

子どもたちはみんな、素直で優しいです
まっすぐで一生懸命です

それに対し、
大人の方は子どもをまったく別の方向へ引っ張ろうとしたりもします
あれれれれ、子どもはそっちに行こうとしていなかったのに
私には何もできません
子どもにも、何もできません
他人の私なんかよりも、大好きなお父さんお母さんの導きに、従うのです
週に1日しか会えない私よりも、毎日会う先生の影響を受けるのです

そう、お父さんお母さんが間違ってるわけない、と信じて
先生が、間違っているわけない、と、信じて…

それでも私はどんぐりを通して、子どもたちを見つめています
子どもたちがどう考えるのか、
どう工夫するのか、どう間違えて、どう正そうとするのか、出口を見つけていくのか、
それはきっと、
大人になっていく卒業生たちの人生を見守るのと同じように
壁や、間違いや、失敗のない社会生活なんか、待っていないのだから
「みんなと同時」なんてことよりずっと、
大事なことをつかんで成長してほしいから