私たちは自分の知っていることだけでものごとを判断しようとします
たとえば映画やドラマで自分とは違う生活をしている人たちを見るとき、
その舞台が海外だったらなんとなく傍観できるのに、
舞台が自分の国で、時代が違うだけとかだとちょっとややこしい心理状態になっている気がします
最近、自分でも面白いなあ、って思うのは、
平安時代をドラマ化したのを毎週見ていて、
脚本が現代語だから平安時代の人たちが私たちと同じような言葉を喋っていて
それを見て自分が感じること
何を感じているのか、何を考えているのか、冷静になって考えてみると面白いって思うのです

実際、
平安時代にどのような発音をしていたのか、どのような身のこなしをしていたのか、録音も録画もないから本当のところは誰にもわかりません
私が学生の頃言われていた説と、現在のそれとで相違があったりしますから、専門の学者さんたちにも断定しきれない部分が多々あるんだと思います
でも、現代人が作る平安時代の世界は、こんな感じって,ドラマですから、
それはそれで楽しめます
今の私たちの生活や、言動に合わせて作られているから、見やすくて、そうじゃないとむしろ、違和感だらけで見ていられないんだと思います

同時に、
30年前に人気だった医療ドラマを再放送しているのも試しにちょっと見てみました
いや、30年前!!
ちょうど、今放送中の医療ドラマも見ているから、
その違いが凄まじいのです
医療機器も全然違うし、医療従事者の服装が!!
全然違うのです
そして、当時はトレンディだったんでしょうけれど、役者さんたちの言葉の言い回しとか、なんなら発声そのものが、今とは全然違っているんだから驚きます
平安時代のドラマよりずっと平成時代のトレンディドラマの方が見ていて違和感があるのが自分でも不思議でした

それで、我に返って生徒たちの添削をしていて思ったのです

DONGLISHでは英語をまず「直訳」します
いわゆる、英語のこの単語は、日本語でいうこの意味ですよ、っていう、代表訳を覚えます

たとえば
I see.
という相づち
これはDONGLISHでは
私は/目にする//
と訳します
Good morning.
は、
良い朝で//
と訳します

これは、そのまま和訳に使える言葉じゃないことは、
生徒たちのほとんどが理解しています
「私は 目にする」っていう言葉の並びがあり、語源はそこにあるんだけれども、
要するに、どういうときに使われるかっていうと、
何か相手の話を聞いて、その状況がつかめたとき、理解,納得した時に
I see.
って言うんです
だから、
和訳では「なるほど」「そうなんだね」「わかったよ」などと、
状況に合わせて知っている日本語で表せばいいんです
Good morning.だって、
もともとは
I wish you a good morning.
っていう、午前中に人と会ったときに、相手に対してかける思いやりの言葉だったのが、
段々と朝の挨拶として慣用表現になったものですから、
私たちが日本で日常的に使う朝の挨拶
「おはよう」「おはようございます」
で、和訳は完成です

英語を訳すときは、
相手の状況を知る、どんな場面でどういう意味で使っているのか、知る
そのあと、
自分たちの言葉に直す
自分たちが同じ場面、同じ意味で使っている言葉を、充てる
それで和訳ができるんです

英文法なんか勉強しなくても、英語圏で暮らしたり、毎日英語を日本語と同じくらいの分量使う状況下にあれば、いちいちその間の処理をしなくても「あ、朝にはGood morning.っていうんだ」「納得したらI see.って言っとけばいいんだ」なんて、理屈抜きに覚えてしまいます

でも、そうじゃない場合はそこは省けません
省く必要もないかな、って私は思います
日本語環境で暮らしているのに、そこを省いてしまうから英語が苦手な子が増えているんだと確信しています
むしろ、こうして言語の違い、構造の違いを知りながら学ぶことで、
より深くお互いの言語について理解できる気がします

英語がいつまでも好きになれない
意味がわからない
と言っている子達の傾向を見ると、
自分たちの言語をもあまり理解が深くないのを感じます
言語について深く考えたことがないみたいな印象です
なんとなく適当に使ってる
それでも会話はできますから、日常生活には困らないのです
でも、
いざ、外国語を学ぼうとすると、
全く交わらない
自分の知っている言語と、初めて出会う外国語との融合みたいな、一緒に比較して考えるみたいな柔軟性っていうか、自由度みたいなのも、生まれてこない、だからずっと苦しいのではないかと

歴史を学んでいても思います
全部自分本位で考えていると、全く理解できないし、意味がわからないな、と
今は当たり前になっている社会通念だって、この時代はまったくなかったんだ、と想像する
それだけで、この時代、どうしてこうだったんだろう、なぜなんだろう、とどんどん興味が湧いてきます

訳がいつまでもカタイ子、頑なに英語を拒絶しているように見える子、他の科目でも、興味が持てない、つまらない、といつまでも誰かが面白くしてくれるのを待っているような子を見ていると、根本から自分の周囲と、自分の知っている世界との関わり方の違いがあるように思えます

知らなくたっていいじゃない
想像してみるだけでいいじゃない
ほんとのところはわかんない
結局のところ、自分のよく知っている感覚に落とし込むことで納得するしかないんです
それでいいじゃない
最後はそれでいいんです

楽しいんです
その方が

結局なにが言いたいのかわからなくなってきてしまったけれど…
要するに、
自分が決めつけたことだけでいろんなことを判断するのは損だなって思う話でした

そんなの違うよ、
そんなのわからないよ、
そんなの知らないよ、
興味ないんで…
そんなことを言う子どもが増えました
大人がそうだからなんだと思います

そんな言葉で最初から壁を作ったら、
はい、おしまい
それ以上は進めません
そんなの、つまんないじゃん、ね