昨日に続き、みなさんに紹介したい名著『精神科医の子育て論』(服部祥子先生著)からの引用は色の文字で紹介いたします
中学1年生のE子さんは、拒食と痩せを主訴にして、来所した。二人姉妹の第二子。家族はコンピューター技師の父と教師の母、そしてかつて保母をしていた母方の祖母と姉およびE子さんの五人。満期安産で出生。小さい時から元気がよく病気もほとんどしたことがない。母親が勤めに出ていたため、乳幼児期から日中は祖母に世話をしてもらっていた。
三歳で保育園に入園。入園の際嘔吐が数回あったが、祖母は細かく心を配り、食事の工夫につとめすぐよくなった。
四歳の時、ピアノを習い始めた。姉が習っているのがうらやましくて母にせがんだ結果である。よく上達し、五歳の誕生会には代表で皆の前で演奏をした。
小学校へ入学。成績は最初から上位。六年間を通して水泳が得意だった。それは小学1年生の夏、風疹にかかり、学校でのプール活動に参加できなかったため、母親が遅れないようにという配慮から、直ちに水泳教室に入れたのが発端であった。
九歳からソロバン、十歳から習字を習い始める。しかし、本人及び親の希望で、小学六年生の一年間はN国立大学附属中学校を目指して進学塾に通うため、けいこごとは一切やめた。そして見事に、難関と言われる希望の中学の入学試験にパスした。
中学入学後、一年間中断していたピアノのレッスンと水泳教室に再び通い始めた。学校でも水泳部に入り、クラブ活動にも熱心に参加した。ところが中学1年生の成績が中位で、本人は相当ショックを受けた様子だった。先生に、皆のレベルの高い学校だから心配しなくてもよいと言われても、E子さんはどうしてもこだわり、夏休み中は1日中机に向かう日が多く、二学期に入ってからも勉強に余念がなかった。その頃から食事量が減り、もっと食べるようにと母親が進めても腹痛を理由に拒み、野菜やおかき等しか食べなくなった。体重は三ヶ月で五㎏減った。
やがて二学期も後半になると、長時間机に向かっているのにボーッとして能率が上がらないと訴えることが多くなったが、相変わらずのピアノのレッスンと水泳の部活動と水泳教室に通うことを続けている。それに長時間の勉強が加わり、さらに早朝1,2㎞ジョギングをする日課も入れて、毎日ハードな生活を送っているが、本人はどれもやめるとは言わない。
E子さんの場合、思春期型痩せ症(神経性食思不振症)特有の性格傾向や心理的背景、とくに母親(祖母も)との間の心理的葛藤が見られたが、中でも目を引いたのは、完全欲求の強さと、強迫的なまでの学習態度であった。祖母も母もおそらく完全欲求の強い人と思われるが、生来的に知的水準の高いE子さんは、母、祖母に承認してもらいたいという願望から、幼い日より学びに励み、おけいこごとも学習塾も手順よく効率的なプログラムのもとでこなしていったのであろう。それはほとんど機械的で、ビジネスをうまくするように、計画的に推進されている。学ぶ体験の中から感じる苦しさややりとげた時の喜びや、やっても思うようにはかどらぬ悲しさや、自分には自分なりの力があるという自尊心等、学ぶことによる生き生きとした体験が欠落してしまっている。E子さんのケースは、学童期の学び体験のもつ重さと意味を深く考えさせるものであった。
なにもかも、順調に見えた、E子さんがなぜ?
症状が出てしまってからでは、立ち直るのに大変な時間と、療養が必要になってきます
E子さんがなぜ、中学生になって精神科を受診するに至ったのか…
それまで、家族の誰も、E子さんの異変や、苦悩に気づかなかったのか…
服部先生はE子さんを治療するにあたり、「学ぶ体験の中から感じる苦しさややりとげた時の喜び」「やっても思うようにはかどらぬ悲しさ」「自分には自分なりの力があるという自尊心」といった、「学ぶことによる生き生きとした体験が欠落してしまっている」と診断なさっています
そして「学童期の学び体験のもつ重さと意味を深く考えさせる」と
優秀で、全てが順調に見えたE子さんは、母や祖母の完全欲求によって当然のように幼い頃から色々なことをやってのけることに、実は心身共に無理を来していた
すべき体験をせず、すべきでない時に盛り込んでしまった結果なのでしょう(でも、中学1年生で治療に入れて、本当によかった…)
子どもたちがどんぐり問題に取り組んでいる様子を見ていると、「苦しさ」「はかどらぬ悲しさ」が見えることもあり、私まで苦しくなることもあります
でも、私にはその苦しさの向こう側が見えるので、苦しいと同時に、大丈夫だよ!という嬉しい気持ちも同時にわき起こるのです
そんなに悩んで、苦しんで、でも、イヤにならずに、続けてる
お宝になって、変な落書きで笑って、正解が出なかったことなんか忘れちゃう
それでも、うーんうーん、って一生懸命考えた
そりゃあ、すっきり解けたらいいなあ~と願うことも当たり前のことで
でも、解法は自分で考えていくわけで、誰にも教わらず、時間を…日数、年月をかけて、かつて苦しんだ、解けなかった問題を自分の力で解いた時、「自分には自分なりの力があるという自尊心」に満ちた表情を見ることがあります
年長さんからゆっくりと始めて、小学校に入る前にその体験が遊びの一環のように生活に入っていて、そのまま6年生までどんぐりを続けることができたら、どれだけたくさんの「学ぶ体験」ができるだろう、とうっとりと想像します
でも、たとえ高学年になってからどんぐりを知って、残り少ない小学校生活の間だけでも、とどんぐり問題に取り組んでいく場合にも、この体験があるのとないのとでは、大きな違いがあるのではないか、と感じます
もちろん、どんぐり問題に限らず、そのような体験のチャンスが多ければ多いほど、という意味なのですが
十二歳までの主要課題 ~生き生きとした学習を経験しているか~
小学校時代は、心身共に幼児のひ弱さを卒業し、しかもまだ思春期の性的特徴の顕在化には至っていない、もっとも元気で安定した時間と考えられている。
この時期の発達課題を「勤勉性」としたのはエリクソンだが、それは”まじめに言われたことを機械的にきちんとする”ということではない。真の勤勉性は、自分のもっている能力やエネルギーを、学びの中に投入し、自発的な熱意をもって遂行しようとする力のことである。簡潔に言えば、「学ぶ喜び」を伴った、生き生きとした学習のことである。
「学ぶ喜び」を子どもに身につけさせることは、なかなかむずかしい。ことに小学校の低学年から、全員が同じスピード、同じやり方で学び、成果を試験の点数や順位で測定するという方式のみでは、1人ひとりの子どもの心に、充実感をもった「学ぶ喜び」は培われにくい。そのため、親は子どもに真の「学ぶ喜び」を身につけさせる努力を、豊かに実施せねばならない。その方策は何か。
T君を育てたJ子さんのとりくみには、多くの貴重な示唆が含まれている。それは、普通の知能を有する健常児にも活用できる。
たとえば、より小さな歩調でわかりやすく指導すること(コンマの教育をする)、少しずつ課題を増やしていくこと、最後に優しい課題を与えて満足させてやること、等は健常児にも自閉症児にも通用する。
また、試験の点数にこだわったり、他の子どもとの比較に憂き身をやつすことを、親はできる限りやめること。人間は本来、できなかったことができるようになり、わからなかったものがわかるようになれば、大変大きな喜びを感じるはずである。昨日まで知らなかった漢字が今日は一字でも多く書けるようになり、鉄棒ができ、絵が描け、かけ算ができ笛が吹けるようになれば、それが人より早かろうと遅かろうと、うまかろうと下手であろうと、非常に誇らしく、喜ばしいものである。この際、試験の結果や順位は、1つの指標として、大勢の仲間と自分の関係を知る上で大いに参考になり、有意義なことと考えられるが、それとは別に、いやそれ以上に、1人ひとりの子どもは、自分のスピードとやり方を大切にし、自分らしくがんばることが最良であるとするだけの大らかさと自信をつけるべきである。そしてそれを培うには、「自分には自分なりの力がある」という感覚(これを「有能感〈コンピデンス〉」と呼ぶ)を学童期につけることが大切という信念を親が持つべきである。もし小学生時代にこの「有能感」を身につけそこなうと、深い「劣等感」を抱くことになり、この後の思春期や大人時代を通して、思い苦しみとなって悩まねばならないことになりがちである。
(中略)
自閉症児の療育は、まさに道なき道、それも容易に辿れぬ困難な道を、気魄をこめて歩いていくことである。どんなに遅々たる歩みであっても、それは確かに歩いたという実感がある。
一方健常児では、同じ学習の道を歩むとしても、能力があるので、はるかに楽である。また、しばしばすでに用意された路線を辿る。そんな時には、真の学習経験が稀薄で、歩いたという実感が乏しく、道程もあいまいになりがちである。生き生きとした学習を経験しているか否か、小学生をとりまく大人達は、時折確かめておくべきであろう。
「真の学習経験」とはなんでしょうか
わたしはどんぐり指導者なので、思いつく方法は他にないのですが…もちろん、本来なら学校で経験できれば理想的です
でも、学校でなくても、どんぐりじゃなくても、肝心なのは「確かめながら進む」ということなのではないでしょうか
※
あ、思いつく方法は他にない、という根拠ですが、私が「勉強法マニア」でもあることはかつてお伝えしたかと思います
巷に溢れる「勉強法」のかなりの種類について自分なりに研究してきました
今でも書店には「勉強法」の本が並び、日々、新刊が出ていますよね
片っ端から、一応、覗いてみる習慣があります
判断基準があるので、その部分を特に重視するのですが
その習慣は、プロとして、そして、どんぐり指導者として、他に似たような方法がないのかなあ?とか、全く別の方法のアプローチとしてはどういうものがあって、子どものどういう部分に影響するのかなあ?っていう漠然とした興味に基づくもので、それで、20年以上研究しているわけです
そのなかで、「子どもの心身を壊さずに本物の思考力を身につける唯一の方法」と確信しているのです
もちろん、私個人の、確信に過ぎませんが
※
「小学生をとりまく大人」である親も、先生も、子どもたちが「真の学習経験をしているかどうか時折確かめておくべきであろう」と書かれていますが、実際に子どもを見る時に、その基準で見ている方はどれほどいるでしょうか
点数や評定など、相対的な評価で子どもを見ていたり、習い事の進捗状況であったり、スポーツの技術、選手に選抜されるか、試合で活躍するかなど、子どもの表面的な部分を見ることはあっても、いま、その子にとってそれが必要で、不可欠な経験かどうか、確認していますか
E子さんのように、何ごとにも意欲的で優秀で、問題なく成長しているかのように見えても、小さな心身にストレスを溜め込んでいるケースは少なくありません
実際、私も、小学生時代は先生のいいつけをしっかり守り、模範的な勉強態度、宿題も完璧に仕上げ、習い事も一切サボらず努力してきた子が、中学生になって授業に全くついていけなくなったケース、不得意なことを親が発見すると、すぐさま対策を立てて対処してきて、自分では何も考えられない中学生になってしまっていたケースなど、一見するとわかりづらい問題をかかえた生徒を何人も見てきました
E子さんのように症状が出て、専門医も「親たちの完全欲求」を指摘し、家族で考え直せるところまでいくならばまだしも、ほとんどの場合、「そこまではいかない」まま、つまり、子どもはある程度のストレスを抱えたまま、自分の本当の力も、本当の気持ちもわからないまま育っているのです
そして、子どもたちが、自分では気づかなかった内面の問題を露呈する時期、思春期が訪れます
では現代日本の若者達の思春期は、いかなるものであろうか。乗物の中で座席を占領し、大儀そうに、傍若無人に、行儀悪く、マンガを読みふける少年たち。嬌声をあげ、笑い転げているが、話の内容はタレントの動向やテレビのはやり言葉や人のうわさ話(悪口)に終始している中高生の一団。夜遅い電車の向かい側に座った塾帰りとおぼしき中学生は、終点までの30分間、ポテトチップスの袋に手をつっこんでは口に運び、手を突っ込んでは口に運び…を繰り返していた。周囲の誰も何も目に入らず、人に見られていることも意識せず、目は一点にぼんやり向けられたまま、うつろな表情で座っている少年は、人間世界から退却したロボットのようである。そんな彼らに、かつて我々が歩み、多くの人々が思いをこめて書き綴ったあの思春期を、今あなた方は生きていると言ったら、どんな反応がかえってくるだろうか。
今も昔も子どもは変わらない、という人がある。しかし私は間違いなく変わったと思う。それは表情を見るとわかる。ことに目の輝きを見ると、ここ七、八年、私は毎年一度は外国に出掛けているが、外から帰ってきて、まっ先に目につくのが、日本人の、ことに若者の、表情である。うつろで、生気に欠け、澱んで、萎びた目が、年々増えているのを感じる。笑っていても腹の底からの喜びではなく、ふざけていても仲間同士の共感や躍動感に乏しい。衣食住等の物質面は他のいかなる時代よりも潤っているのに、何かしら満ち足りぬ不幸をその目は語っている。ただ時にその目に明らかに浮かぶのは、怒りの表情。眉根を寄せて不愉快さをあからさまに示したり、険しくとげとげしく突出する憤りの表情。喜怒哀楽のうち、明瞭に示されるのが怒りだけで、あとはうつろにぼやけているというのが、現代の若者の情緒性についての私の極論的感想である。
もし、私が感じるように、かつてあったあの思春期がもはや消えつつあるのなら、長い間語られてきた思春期の危機の激しさも美しさもまた消えていくことになる。暑い夏がめぐり来ぬならば、夏の暑さをどのように迎えるのかを語る言葉はもはや無用である。
うつろな思春期 ~ルーツは子ども期の内的未熟さ~
町中や路上や乗物の中で出会う若者たち、診察室に悩みや問題をかかえてあらわれる若者たちも、おしなべて、かつての思春期特性、生と性のエネルギーの噴出や、激しい緊張や不安等を示すことが少なくなった。そのため、私は現代の思春期を、うつろな思春期と呼ぼうと思う。
うつろな思春期。なんと悲しい表現であろうか。現代の若者が望んでそうなったのではない。親もまた、そうなるようにと、育てたわけではない。
しかも、いま思春期にいる若者たちも、これから思春期に入っていこうとする子どもたちも、待ったなしで、絶え間ない時を生きている。手をこまねいているわけにはいかない。なぜこうなったのか、その背景を考えねばなるまい。
まず、大きな要因として環境がある。思春期の若者が生き生きと生きられぬ原因が、子どもをとりまく社会にあるという考えがある。飽食の時代で物質的に潤い過ぎて厳しさを経験できぬ環境、自然が人工的操作によって次々に破壊され、大気も水も汚染され蝕まれていく環境、逃げ出す余地もないほどに個人の生活に侵入してくる情報の嵐の中で、自由で創造的な発想が育ちにくい環境、管理的、統制的で、人間性より学業成績によって人間が評価される学校環境等、一つ一つ列挙していくと、果てしなく続くのではないかと思われるほど、自然で、素朴で、生き生きとした精神の営みが阻まれる環境に、現代の若者達は置かれている。これではかつてのような思春期を望むべくもない、と言いたくなる。しかし、考えてみると、これらの環境問題は(学校環境だけは相当異なるが)、多かれ少なかれ、欧米諸国も共通に抱えている問題である。それが証拠に諸外国でも、犯罪、暴力、薬物中毒、十代の妊娠などの荒々しい問題が思春期の若者を直撃している。しかし、日本のような、うつろな思春期にはなっていない。したがって、環境が悪いだけで日本の若者の病理性は説明できない。
次に環境の中でも、学校が特に問題という指摘もあろう。確かに、日本の学校は、校則、体罰、試験、偏差値等をもって、思春期の若者達に迫っていく。人との出会いと共に生きる楽しみや味わいや、自分の才能を伸ばし、誇りと喜びを培うチャンス等は、ほとんど殺ぎ落とされてしまっている。これは、思春期を枠組みの中に抑圧し、窒息させる危険性の高いものである。しかし、学校はどこの国でも多かれ少なかれ管理的、統制的に子どもや若者を縛る。また戦前の教育をふりかえってみても、今よりはもっと全体主義的色彩が強く、抑え込みがきつかったのではないかと思う。それによる弊害はいろいろあったと思うが、それでも現代のようなうつろな思春期にはならなかった。
とすると、現代の思春期の病理性は、外側の環境要因そのものより、若者自身の精神内界の発達状況が、一番大きな鍵を握っているのではなかろうか。ことばをかえると、思春期を迎えるまでの子ども期の内的成熟が不十分なため、思春期の課題に取り組めない、つまり自我機能(考える力=知、感じる力=情、意欲する力=意)が脆弱なため、性や母子分離や仲間体験等の、困難ではあってもやりがいのある思春期のテーマをこなしきれない。その結果、思春期になった時、主体的に生きる方向性の代わりに、なるべく動かず、揺れず、前進も後退もせず、平穏無事に生きのびようとする一種の防衛機制が働き、あの生気を失ううつろさが出てくるのではあるまいか。うつろな思春期は、思春期の問題というより、それまでの子ども期の内的成熟の成果が問われているというのが、私の考えである。
この本が書かれたのは1991年です
著者が見た「思春期の若者」に私も含まれていた時代です
きっと、あれから30年近くたった今でも、著者の見る「思春期像」は変わっていない、「うつろな思春期」はもしかしたら、等加速度で増加している、と見られているかもしれません
自然破壊や経済、そして学校環境が原因でもなく、日本の子どものうつろな思春期の原因は「精神内界の発達状況」→「子ども期の内的成熟が不十分なため」「自我機能が脆弱なため」と指摘しています
子ども期の内的成熟の成果とは、誰によって影響されものかは、この本の主人公とも言える、自閉症児T君とその母親のJ子さんの育児法を読めばわかってくると思います
そうはいっても、子どもは強く逞しく、どんな世の中でも生き抜ける
大人がどうこう言うことでもない
そういう意見もありましょう
でも、だったら、なぜ、私たちは「人間の親」となったのか
教師の方々も同様に、なぜ、「教師」となったのか
「放っておいても子は育つ」のなら、最初から全部、食べるものも飲むものの、着る物も、なにもかも、放っておくのでしょうか
私たちの存在意義はなんですか
原発事故に象徴されるように、私たち人間は、自分たちで作ったものさえコントロールできない域にまで達しています
立て付けが悪ければ叩いたり、ネジを締め直したりしてなんとか使い続けることができた家財道具も、今や、素人では修理できない、いじれないものばかりで、ふと考えると、自分たちは何に囲まれて生きているのだろう、と…私の作ったオンボロ小屋で生きている動物たちと遊んでいる時に考えたりもします
だから私は自分の手で作り、自分の手で、直す、そんな姿を子どもたちに見せてきました
何の技術もないので限界はあります
家や車まで作ることはできませんでした
でも、自分でなんとかやれる、ってことは挑戦してきました
下手でも、かっこわるくても、それが、子どもたちと生きる私の親像だったから
何にもない川原で、野原で、海で、遊具のない公園で、どれだけの時を子どもたちと過ごしたでしょう
キャンプの夜は闇に包まれ、朝は露をはらい、日が高くなると同時に軽くなっていく空気を胸一杯に吸い込みます
私には、わからなかったから
それ以外に、子どもとどう過ごしていくか、子どもの子ども時代を親としてどう一緒に過ごしていくか、わからなかったからそうしてきました
「親だからこそ一緒にできること」ということに尽きました
親とじゃなくても楽しめることは後でもいいか、と漠然と思っていました
ディズニーランドは高校生になって友達と初めて行った長女です
キラキラとした写真を見せてくれて、初めての経験を楽しそうに話してくれて、当時6年生だった次女もそんな話を聞いてますます「いつかわたしもっ!」と夢を膨らませたことでしょう
否定するのではなく、親として、家族で、選択をしているのです
判断基準は、「親としてすべきことは他に任せない」ということです
お金を払えば、なんでも叶うかもしれません
たとえばどんぐりだって、ある講演会のあと、質問がありました
「この問題を買って、やらせればいいんですか?」
そうかもしれません
でも、そうではありません
確かに学校の勉強の「内容」を教えてもらうなら、教師や、プロ講師がいいのかもしれません
どんぐりだって、修行を積んだ指導者のもとで取り組む方がいい、と考える方もいるでしょう
でも、いずれにせよ、家庭ですべきことをしていない場合、
すべきでないことをしすぎてしまっている場合は、
子どもは、伸びないんです
そして、最悪の場合、子どもが破綻するのです
塾も、スポーツ教室も、どんぐり教室も、どんぐり問題でさえも、
使い方を誤れば、子どもたちは迷子になるでしょう
子どもの内的成熟が鍵だ、と精神科医の服部祥子先生が書いています
お子さんは、生徒さんは、「内的成熟」をしているでしょうか
目に見えぬ、内面の状態を、どこまで見ていますか?
子どもたちをもっと見てください
そして、子どもを取り巻く大人のひとりとしての、
責任をまっとうしましょう
子どもたちが大人になったら…
みんなでぱーっとやりましょう!
(いっとき、いっとき!!)