これは1年生の子が一生懸命解いた作品
覚えたての文字で一生懸命絵の説明を書いています
でも、絵は正確に描かれていて、文字は要らないなあ、と添削を始めてすぐに感じました
だから、
「ちゃんと描けてるねえ。絵だけ見たってどういうことかちゃあんとわかるよ」
と言いながら問題を通し読みし、鉛筆で絵を追っていきました
「絵だけでちゃあんとわかるから、説明を書かなくても大丈夫そうだよ」
と言うと、きょとんとしていました
その次の時に解いたのがこの作品

文字の説明はなく、矢印と、5本ごとに★が描いてある、それだけになっています
でも、しっかり整理されて描かれていて、誰が見ても意味がわかります
この子の素直さと、自分の絵を信じる力を感じました

たぶん経験を重ね、どんぐり問題をたくさん解くうちに、
子どもたちにも癖みたいなものが身についてきます
以前、こうやって解けたからこうに解く、と決めていて、
新しい工夫をしない子もいます
低学年でスタートすると、「以前こう解いたから…」などという記憶がないのか、知恵が働かないのかそれが逆にいい感じに影響してどんどん新しい解き方を試すので、その経験があとあとまで残り、高学年になってもむしろ「違う解き方はないかな」と模索するようになります

「こう解かなければいけない」「前にこう解いたからこうすべき」と決めつけてかかる子の思考の幅は狭く、伸びやかに見えません
でも、それもやはり子どものせいではなく、いつの間にかそのように導いてしまった大人の存在があるように思います

そして、いわゆる普通のドリルや問題集で、解き方が決まっていて、なんなら例題も類題もあって、真似すれば正解できる類いの「学習」を経験している子も、なんとかルーティンを探してパターンで解こうとします

幼児教育や早期教育でそういう経験をしてきた子のどんぐりスタートで苦心するのはその部分ですが、それでも、低学年でスタートしてくれたらいくらでも軌道修正できるのです
なぜなら、小さな子ほど、本当は自分の好きにやりたいからです

大きくなると、子どもでも安定を求めます
怒られないよう、褒められるよう、過去の栄光にすがるような、不安を安定に変えるような、そんな傾向が見えてきます

高学年スタートであっても、
元々学習面以外で素直に伸びやかに暮らしてきた子は「そうなの!?自分の自由でいいの!?」と、どんぐりを楽しんで解きます
でも、
指示されて学んできた子、指示されて生活してきた子はそこから脱するのが怖いようです

その呪縛はすぐには解かれないし、大人になって露呈することもあるので本当に子ども時代の大人のありかたは重要です
大人になった我が子が苦しんでいるとき、親は年老いていて、たいてい、自分の子育てを省みて子どもを思い遣ることなどしないのです

それでも、
もし、子ども時代に大人が自分のしてきたこと、言ってきたことについて省みて、反省…というか、方針転換するのであれば、誠心誠意、そのことを子どもに伝えれば、必ず子どもはわかってくれます

たぶん、私たちは、分岐点やなにかの入り口に立っている案内人になればいいんです
あっちへ行きなさい、じゃなくて、
こっちはこうで、あっちはこうです、と指し示すだけの
強引にひっぱって方向を決めても、命じても、
歩いていくのは子ども本人です
でしゃばらず、愛情と思いやりと敬意を持って、子どもの歩いていく道を見守り続けるだけでいいと

あ、この道は違った、と思ったら案内人のところに戻ってくることもできます
そうしたら案内人はまた別の道を提案することもできます
何歩かだったら一緒に歩き出すことも
その先は、
ひとりで歩いていくのだとしても、
いつでもここにいるよ、って待っていてあげられる

さて、年末に中学生に配ったこのパズル


面白すぎて止まらなくなるので自分に制限をかけていて、
いま、25まで進みました
中学生が持ち帰ったのに、
小学生の妹がどんどんできちゃう、とか、
高校生の兄が興味を示し、家族でやってる、とか、
いろいろ聞いてます
頭を使います
すごく面白いです

思えば、
私はずっとこんなことして自分が好きな遊びを探してて
子どもたちはそれを見ていたんだろうなあ、って思うんです
案内をした覚えもないから、案内人としてはどうかはわからないけど、
私は私の人生をその時なりに楽しんでいたんだと
案内できるほど人生経験が豊かなわけでも上質なわけでもないから、
ただただ、一生懸命自分の人生を生きてきただけなんですけど…