TBS日曜夜に放映されている「林先生が驚く初耳学!」で
『学校の当たり前をやめた。』
の工藤校長先生と、
林先生との対談が実現しました

林先生が好きで、工藤先生の本も予約して買ってみんなに宣伝した私にとって
夢のような対談

久々に講演会全記録用のノートPCを引っ張り出して、
お二人の対談を全部記録してみました

本を読んだ方もまだ読んでいない方も、ぜひ、対談の様子を読んでみてください

(対談部分敬称略)

林先生スタジオ談

最近よくある民間登用の校長先生ではないんですよ
そうではなく本当にもうずっと、公立中学校の先生をやってらっしゃって、教育委員会に勤めていらっしゃった時もあり、そして、2014年に(千代田区立)麹町中学校の校長に赴任してからは、次々と改革を実行されている、と

対談場面へ

学校の当たり前を変えた、工藤校長の3つの改革

①宿題の廃止


宿題を廃止された、って…

工藤
はい。宿題って…あの、いや、あの、みんな知って…あ、いや、あの、知らないのかなあ、と思って…。普通、知ってるでしょ、知ってますよね、宿題なんて意味ないって。本当は。


もっと大きい声で言ってくださいよ、僕もそれはずっと言い続けてますけど

工藤
自分の人生を、少し自分で考えられるような年頃になってきた、まあ中学生くらいですね
たとえば漢字の、同じ漢字を30回ずつ書いてきなさい、とか、同じ単語を30回ずつ書いてきなさいっていうことは、これ、修行でしかない


そうですよね

工藤
膨大だから、子どもがやるのは、どうやってこの宿題をこなすか?ってだけ考えるので、質なんかどうでもいいわけですよね、ある意味   


僕もよく、にんべんの大量生産とかしましたから

工藤
勉強の習慣をつけさせることが大事だとか、学習習慣をつけさせることが大事だって言ってますよね
じゃあ、何にもやることがないのに、机に向かう事が大事だって思います?って僕が聞きたいですよね

林  
そうですよね

林先生スタジオ談

宿題に関して言えば、じゃあなんで出すのかっていう根本から考えてみたら、その単元が、わかっているかどうか、その分野の理解を深めるため、でも、実際には、わかっている子ども達もやらなきゃいけないですよね
その子達にとっての宿題っていうのは、いったいどういう意味があるのか
で、また、逆に、できない子にとっては出されてもよくわからないから、そうすると人のをそのまま写して出す、っていうようなこともありますよね
じゃあ、そんな本来の意味を失っているものはやめましょう、と

対談場面へ

②定期テストの廃止

工藤
今の日本の教育って、情報をずーっと与え続けて、で、それを記憶して、で、ペーパーにアウトプットする、と
で、この能力に長けている人が大学に合格していく、ってことですよね
本当に大事なのは、子ども自身が、「勉強したい」ってまず思うかどうかじゃないですか、一番大事なのは

(定期テストの代わりに導入したのが単元テスト
 たとえば比例反比例が終わったところでその小テスト
 しかも、1度受けた後、再チャレンジすることが可能)

工藤
宿題をなくした、っていうのは、実は再テスト制とセットなんですよ


ああ、なるほどなるほど

工藤
1回単元テストをしました、と、自分は70点しかとれませんでした、と
でも、再テストを受けさせてください、と子どもが自分で申し出てくると、2回目の日にちが決まっててそれを受けることが出来る、と


ほうほうほう、それは自己申告なんですか

工藤
自己申告です
受けさせてるんじゃないんです
70点だった子どもは、30点分のわかんなかったところを調べてきますよね
勉強って、わかんないものをわかるようにすることだから、わかんないところをわかる状態になるまで努力をしようとするじゃないですか
仲のいい友達に聞こうか、いや、あいつに聞いてもわかんないから、違う奴に聞かなきゃいけないな、
どうしようかな、調べてわかるかな、とか工夫しますよね
で、工夫をして、で、何らかのアクションを起こして、分かるようになった、で、これが自分の経験になるので、次の行動に変化が出ますよね

林先生スタジオ談

校長が、何度も何度もおっしゃるし、本にも書いてあることとして、
《板書》「目的と手段」
目的と手段と言うことをおっしゃるわけですよ
全国の学校でほとんど同じ、と言っていいような制度で、まあ、中間テストとか期末テストとかが行われていると
で、その理由はなんなのか、ということは実は、工藤校長の著書に書いてあることなんです
それは「通知表をつけるため」だと
だからそもそも、通知表をつけるっていうのは、みんなの学力が向上するためのひとつの手段としてああいうものも用意されていた、と
ところが、通知表をつけることが、いつの間にか手段ではなくて、目的に変わってるんじゃないかと
で、こういうことが実はいっぱい起きている
で、本来のその形を忘れて、もう今こういうことになってるから、こういう慣習だから、っていうことで、実際にいろんなことが行われている
ですから、テストであるとか宿題ってものは、もう廃止した、と

…勉強はねえ、やらされているうちは成績伸びないですよ!

対談場面へ

工藤
うちの体育祭、変えたんですよね
子ども達にあげたんですよ
子ども達に、この体育祭って行事、全部あげるよ、って言ったんですよ
最上位目標を、この目標を達成してください、って僕がミッションを与えるんですよ
保護者とか、教員とか、大人が誰も楽しくなくていい、極端に言えば生徒全員を楽しませてくれ、と
運動会がもう、嫌で嫌でたまらない子がいる
運動会が嫌いな子がいる、その子も楽しめて、得意な子も楽しめる、ってことだからね、って言いますね
と、子ども達、悩むわけですよ

(アンケートをとり、話し合いのすえ、全校の1割約15人が反対した全員リレーを廃止)

工藤
今まで体育祭が大嫌いだった子ども達も含めて、「楽しかったー」って言ってくれましたね
これってすごい問題解決じゃないですか

林先生スタジオ談
 
体育祭では結局、オリジナルの競技をいろいろつくっておこなった、と
(ピコピコハンマー騎馬戦、ムカデ競走など)
で、その一方で、もうひとつの学園祭みたいなところでは演劇みたいなことやった時のミッションは、来た人を楽しませる文化祭にしろ、と
だからその場合にはどうなったかっていうと、オーディションをやって、これじゃお客さんが楽しめないよ、っていうのを出した人たちは出してもらえなかった、と

対談場面へ

③クラス担任制の廃止


いわゆるひとクラスに、固定した担任がいる、っていう制度を廃止されたんですよね、で、代わりに、「全員担任制」?

工藤
「全員担任制」。まあ、学年ごとのスタッフですけどね
全員担任制はね、僕全国に広めたいと思ってる
イメージとしては、医療の世界と同じで、チーム医療
子どもが、ある問題が起きたら、その問題を最も解決しやすい人間があたる、
たとえば子ども同士の喧嘩でもそうだし、もっと大きいトラブルであっても、それに最も適してるだろうなって人をマネージメントしてあてがってく、ってことですよね


実際にやってみて、今までの成果はいかがでしょうか

工藤
子ども達がとにかく、クラスの比較をしなくなります
うちのクラスはいいとか悪いとか、全く言わなくなりますね、全くって言うよりは、すごい減ります
子ども達だったら、あ、たとえばこんなこと言いますね
うちのクラスで問題が起こった、仲直りができない、
どんどんどんどんクラスが荒れていく
これは担任のせいになるわけですね、今までだったら
で、そうなると、このクラスって、改善能力無くなるんですよ、
自己改善ができなくなるんです
人のせいにしている人間の集団になっていくので
教育をよくしていくためには、全ての大人が当事者じゃなくちゃいけないし、もっと言ったら子ども自身が、もう中学生くらいだったら充分ですよね
自分たちが当事者になっていくっていう仕組みをつくっていかないと、人のせいにすることだけを覚えちゃう子ども達になりますよね


先生にとっても、その制度はいい制度と?

工藤
職員室の雰囲気はもう、「子どもをどうする?」って話題でいっぱいになります
今までだったら、いや、あの子は問題だよね、ってみたいなことが共有化されたりする、
でもそれって学級担任がやることでしょってことだから


そうですよね
保護者の方はずいぶん戸惑われたんじゃないですか?

工藤
えーと、それがねえ
みんなが見なくなるんじゃないですか、っていう心配をする保護者もいました
でも、僕が大事にしたいのは、保護者もそうだけど、誰かに、良い教育をしてちょうだい、という期待ばかりしている、この構図ってよくないですよ、と
僕が一番感じてるのは、世の中全体が、人のせいにしてる感じに変わってきてる
学校も、言われたことをやりなさい、言われたことをやりなさい、って子ども達ばかり育てているから、自分が当事者だ、っていう意識が薄れていくんですよ


林先生スタジオ談

先生は日本社会全体からこの当事者意識が薄れているではないかと
そこを変えるためには、もう、小さい頃から教育を通じて、子ども達に当事者意識を持ってもらうことが一番大事じゃないか、というお考えのもとに、とにかく生徒たちが主体的に、生徒のためになることを教師はとことんやっていく、ということをもういろいろな面でやっていらっしゃる

あとね、またいいのが、みんな仲良くする必要はない、ってこともおっしゃるんですよ
学校ってみんな仲良くしよう、って言うじゃないですか
いやいや、どうやったって仲良くなれない人がいるのが世の中だ、と
じゃあ、その対立の中でどう解決していくかを考えよう、っていう方向なんですよ

校長の頭の中にあるのは、いったい教育の最終目的はどこか、と
社会に出てからよりよく生きる、そういう能力を身につけることなので、そのために役に立つことはやる、と


対談記録、おしまい。

どんぐりでは「小学生の宿題」について考えなくてはならない機会が多いです
工藤先生は中学校の校長先生ですから、小学生についてどうお考えなのかは、正直わかりません
でも、冒頭の工藤先生の言葉(戸惑いながらも、当たり前にみんなわかってるよね?って確認するような表情で)

「宿題って…あの、いや、あの、みんな知って…
 あ、いや、あの、知らないのかなあ、と思って…。
 普通、知ってるでしょ、知ってますよね、宿題なんて意味ないって。本当は。
たとえば漢字の、同じ漢字を30回ずつ書いてきなさい、とか、
 同じ単語を30回ずつ書いてきなさいっていうことは、これ、修行でしかない」

っていう部分は、小学生に置き換えても同じなのではないでしょうか
…というか、小学生の方がむしろ、その「修行」が大きく脳や心に影響してしまうと考えられます
単純に言うと、「無力感の学習」です
何も考えず、こなすだけの宿題、作業、
むしろ宿題を大量に出す先生たちはそこに意味を持たせている、「これは修行だ」と
※だからペナルティで宿題を増量する=苦行と断定している

そして、学校から宿題を出されれば、親だって必至に「やらせなきゃ」となる

その宿題が子どもにとって必要かどうか、
なんのために書くのか、解くのかなんて、気にすることもなく、疑問にも思わず

私は「苦情」ではなく、「これは何のためですか?」と
何度も小学校の先生に質問したことがあります

先生によっては、それを苦情として受け取った方もいたかもしれません
苦情として受け取られないよう、最大限の努力と様々な協力は全力でしてきたつもりです
だって本当に苦情だなんて自覚はないのですから
小学校と敵対する気はなく、学校のせいにしたいわけじゃないからです
惰性じゃなく、きまりだからってだけじゃなく、目の前の子どもたちについて、
少しだけ立ち止まって考えてみてほしかっただけなんです

だって、マニュアル通りっぽくない宿題を出す先生だっていたのです
その1年間は天国でした
毎日、先生の手書きの(ちょっと曲がったような、気の抜けたような文字の)
プリントの宿題が私も楽しみでした
長女は、その先生の1年間で劇的に変化し、
大好きな先生の手作り宿題プリントを進級してももらいに行ったほどでした

…ということは、先生がアレンジしてもいいんだ!?
となんとなく思いました

もちろん、そんな手間をかける時間はないのです!と言われればそれまで
でも、
ドリルの宿題を出し、答えを写したり、テレビを見たりしながら適当にページを埋めてきた子のノートの誤字にも気づかないまま○をつけるために、
貴重な昼休みを浪費する方がずっと大変だと思うのですが…気のせいでしょうか…

苦行を強いれば、解放されたいのが人間です
勉強は退屈で苦しいものだ、といち早く植え付けられた子どもたちは、
今度は、「やらされる勉強」しかできなくなってしまいます

そして、途中にあった林先生の絞り出すような一言
「…勉強はねえ、やらされているうちは成績伸びないですよ!」

先生にやらされているうちは、
親にやらされているうちは、
塾にやらされているうちは、
伸びません
断言できます

いくらお金と時間をかけても、伸びないんです、これが

でも、「やらされる勉強」の基礎を、
幼い頃から植え付けられてしまったのを払拭するのは、とても大変です

どうして気づいてくれないかなあ…
悲しくなります
余計にあとが大変になるじゃないの!!って

宿題忘れは倍増ですよ!
掃除当番延長ですよ!
反省文ですよ!
みんなの前で謝りなさい!
1日中黒板に「宿題忘れ」として名前を書かれたまま

…まあ、小学校の頃はそのようなペナルティで済まされるかもしれません
それだってどうかと思うけど…

中学生になると、「自主的に勉強しなさい」と
生活記録ノートまで細かく書かされます
各科目、テスト前には大量の宿題が出されます
すでに「やらされる勉強」のスパイラルにどっぷり

入試前にはもっと苦しくなります
言われたことを、言われたとおりやっていただけなのに…
なぜ…

そして、いつか社会に出る子どもたち
もうその時彼らは、子どもではありません

誰かが毎日、彼らに課題を出すでしょうか
「これとこれを、こういう風にやってください」
そして、できたらチェックしてもらって、次の指示を待つのでしょうか

当事者意識のない彼らが、
どんな社会を作るでしょうか
道にゴミをポイ捨てしながら環境破壊を憂うのでしょうか
匿名で誰かを傷つけても、それがイマドキ、と平然としているでしょうか
自分が同じ事を言われてもされても、強く生き抜けるでしょうか

工藤先生の「全国に広めたい」の方法を、手伝う方法はないかと考えます
ええ、
ええ、
わかっていますよ
保守王国群馬の教育委員会が
少なくとも「まっ先に見学に駆けつける」わけなんてないってことは
「まだ始めて数年だろ」って(失敗するのを期待して)
高みの見物をしてるエライひとたちばかりだってことも

でも、今を生きてるわが子達を、
犠牲にはできないよ

保護者も当事者なんです
誰かによい教育をしてもらおう、なんて
そんな期待ばかりして期待はずれだと陰でグチグチ言うだけなんて、
かっこわるいです

子どもたちに、かっこいいとこ見せようよ
大人なんだから